選択する眼、リリースする眼

めずらしくニュース記事の引用から、エントリーを書きはじめてみる。
スタンフォード大学が2009年8月に公表した、タスク処理に関する研究結果の話から。

この研究は、スタンフォード大学が2009年8月に公表した調査結果の説明になるかもしれない。同大学の研究者たちは、日常的に複数のタスクの処理に追われるている人々は、認識能力に悪影響を受けることを発見した。「Cognitive Control in Media Multitaskers」(メディアマルチタスカーの認知制御)と題された調査報告書によると、タスク切り替え能力のテストでは、メディア上で多数のタスクを処理している人々(ヘビーメディアマルチタスカー)の能力は、少数のタスクを処理しているユーザーのグループよりも劣るという結果となった。

普段、マルチタスク的な状況に置かれている人ほど、タスク切替能力が低い。
この結果は、僕の感覚としてしっくり来る結果だ。

タスク切替能力を、認識的な集中を維持する力と、それをオフする力として捉えてみるとよい。

人が生きていくなかで基本的に常にすでに周りの環境は動いているのだから、人間がマルチタスク的に並行してそれらを相手にするのは自然である。
その逆に不自然で、訓練による獲得が必要になるのは、周囲が変化するなかでシングルタスク的に集中を維持するほうだろう。しかも、それを何かのきっかけで自発的にオフする選択が可能なように保持しておくというのは訓練の賜物であるはずである。

機械的なマルチタスク処理に慣れている状況というのは、このタスク切替を自動化・外部化すると同時に、心理的なタスク切替を外部の変化と無関係の状態に置くことであるのではないかと考える。日々大量の情報に晒されていながら、そのひとつひとつに関心を示しきれずにその大部分をスルーして生きることに慣れた僕らは、外部の変化に対して自らの選択/選択のオフをするタスク切替能力を日々退化させているのであろう。

どの豆を摘み取り、どの豆を捨てるか?

ここで話を変えよう。

昨日はある方のご好意で、すこしばかり畑仕事の手伝いをさせてもらった。
サツマイモの植え込みとスナップエンドウの収穫の作業をすこしばかりしたのだが、よく晴れた空のした、土をいじる作業は思いのほか、楽しく病みつきになりそうだった。

話は、その畑仕事でのスナップエンドウの収穫についてである。

とうぜん、畑で育った状態のスナップエンドウは、スーパーで売られている状態のものとは違って、大きさも発育の状態もまちまちである。まだまだ育ちきっていないものもあれば、育ちすぎて固くなってしまったものもある。虫に食われて穴のあいたものもある。

それゆえ、収穫の際には、収穫を担当するそれぞれの人が、どの豆を摘み取り、どの豆を摘み取ったあとにカゴに入れるか、あるいは食べてもおいしくないと判断して地面に捨てるかを決めなくてはならない。まさに選択とリリースの力が必要になる。モノを見る眼である。
いちいち、これは食べられるかな?と人に訊ねていたのでは、作業が捗らない。

この認識を通じた選択とリリースの判断力は、先のタスク切替の話にも通じるし、当然、モノ選びの力、目利きの力にも通じる話だろう。

このモノを見る眼、目利きの力がないと、モノは消費されるモノと化す。
集中を保持する力、その集中を自ら解放する力がないから、モノと自身の関係を自らつくりだすことができず、モノを自分で美しいと信じる力が開花しない。自制が利かないから自らの価値観でモノを選択できず、外部の評価でしか選択の判断ができなくなる。
ただ、外部の評価で、まわりの流行でしか、モノを選ぶことができなくなり、あらゆるものが消費の対象でしかなくなってしまう。

どのモノを選び、どのモノを選ばないか?

ここでまた、話は変わる。

日本民藝館で学芸員をしていたこともある、尾久彰三さんの『観じる民藝』という本に、こんな一文がある。
昨日畑仕事から帰ってきて、読みはじめた本である。

叔父の買ったモノのどこが美しいか、といったことを、分かるまでじっと見つめて、勉強するようになりました。このことは簡単なようで、難しいことなのです。というのは選択者の眼を、神や仏のような絶対者の、眼と同じに考え、まず信じることが求められるからです。そのためには、自我を捨てなければなりません。これがなかなか難しいのです。でも、自分の眼が出来るまで、自我を捨てる努力は絶対必要なのです…。

尾久さんは、富山県に住んでいた高校生の時に、柳宗悦さんらの日本民藝運動に関わっていた伯父さんに連れられて、月に2度ほど、飛騨高山に行っていたそうで、そこで伯父さんが古い民藝の品を選ぶのを手伝っていたという。
そこで伯父さんが選んだ品を通じてモノを見る眼を養ったというのですが、そのことを言葉にしたのが上記の引用になる。

これも僕には非常にしっくりくる話で、自我を捨てる=忘我というのは、結局、自分を捨てた状態でのモノや他人との関係も含めて自分を引き受けるということです(忘我については、前に「あきらめる」というエントリーでも書いた)。

本を読む場合でも忘我の状態で書かれたことの世界に飛び込まないと、何が書かれているかが読めないことがある。それにはまず自分の価値観を捨て、著者のことを信じて飛び込まないといけない。そうやってはじめて読めるようになる。

この信じる=引き受けるという覚悟が、モノと人との関係でも大切だと感じる。
その場合でも、根底にあるのは、認識的な集中を維持する力とそれをオフする力であろう。選択とリリースの力である。

モノの美しさは選ぶ人とモノのあいだの信頼関係

畑仕事という体験をしたあとだったからだろう。尾久彰三さんの『観じる民藝』を、これまでの民藝の見方とはすこし違った視点で読むことができた。

読みながら考えたのは、こんなことである。

モノはあらかじめ美しいのではない。ましてや、価格で価値が決まるのではない。
モノは選ばれて美しくなる。使われてはじめて美しくなる。美しいと信じて使うことだ。
それがモノを美しくし、使う人を美しくする。

モノの美しさは選ぶ人とモノのあいだの信頼関係のようなものだと思う。
その関係を過剰に美しい品を作ろうとする作り手の意識が邪魔をしてしまったり、売り手が余計な評価を差し込んだりして混乱させてはいけない。そうしたことが起こると、選ぶ人とモノとの蜜月が生まれにくいはずだ。おせっかいはほどほどにすべきだろう。

それと同時に、選ぶ人はほかの誰かに頼るのではなく、自らの眼で選ぶということを心がける必要もあるだろう。
そして、自分で選んだモノを信頼し続けないといけない。簡単にその信頼を裏切ってはいけない。それは結局、自分の選択眼を裏切ることだから。自分の眼に自信を持てないのは、モノに対する信頼を維持する力が弱いからだろう。

保持する力。維持する力。信じる力である。
自身とモノとの関係を持続させる力である。

だが、それは頑固になれということではない。
なぜなら、それはすでに上に書いたように、しかるべきタイミングで自らの意志でリリースする力、オフする力も含まれているのだから。

さて、あなたは美しいものを自分の眼で選べる美しい人だろうか?

P.S.
ちなみに、『観じる民藝』は、写真掲載された数々の古民藝の品々が美しい一冊です。
昨日はあらためて「線香」という言葉の美しさに、この本を通じて触れることができました



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