先週観た「オブセッション - Obsession/勅使川原三郎、佐東利穂子」とは、ダンスと陶芸と分野はまったく異なるものの、同じような感動を覚え、同じような思考が働いた。

ルーシー・リーは、20世紀を代表する陶芸家の一人。
1902年にウィーンの裕福なユダヤ人家庭に生まれ、工芸美術学校で轆轤の魅力に取り付かれ、陶芸活動を開始している。数々の賞をとりながら新鋭陶芸家として注目されるようになる。
戦争の気配の迫る1938年、ロンドンに亡命。日本民藝運動とも関わりのあったバーナード・リーチなどとも交流を深めながら、1995年、自宅で93年の生涯を閉じるまでロンドンの工房で制作活動を続けている。
今回は、没後初の本格的な回顧展で、250点の作品が公開されている。
ルーシー・リーの陶芸
ロンドンという都市で陶芸の制作を行ったというのが、日本の民藝に興味をもつ僕の感覚としては、まず不思議な印象を受ける。その作風は、交流のあったバーバード・リーチの日本民藝の影響を強く受けた分厚く力強い印象とは大きく異なり、器の厚みも薄く繊細。
1940年代の終わり頃に訪れたエイヴベリーの博物館で観た、新石器時代の土器の表面につけられた鳥の骨で引っ掻いて描かれた幾何学的な模様から着想を得た、掻き落とし(スグラッフィート)の技法による線文は彼女の差品に数多く見られる代表的な作風だが、その線もとても細密だ。
だが、そうした薄さ、繊細さをもつからといって、彼女の作品からは弱々しい印象はまったく受けない。むしろ、その繊細で緻密な表情の背後にとてつもない力を感じさせる。
実は、ルーシー・リー展を見る前に、21_21 DESIGN SIGHTで開催中の「ポスト・フォッシル:未来のデザイン発掘」展も見たのだが、こちらは展覧会のディレクションを担当したリー・エデルコートのコンセプトに共感するところはあったものの、実際に展示された作品がどうしても物としての完成度的にはタイトル負けしている感は否めなかった。
そのあとに見たせいもあってか、ルーシー・リーの作品のほうが、よっぽどポスト・フォッシルで、古代の呪術性やアニミズムにつながり存在感を感じた。特に作家としての円熟味を増した後期の作品にはそれを強く感じたのだ。
円熟期の作品の変貌
今回の展示は、ウィーン時代(1921-38年)の初期、ロンドンでの38年から60年代までの形成期、そして、70年代から脳梗塞で倒れる80年代後半までの円熟期の大きく3つに分けて作品が展示されていた。初期、形成期の作品を見ていると、その作品の1つ1つにその容姿をつくりだした手のあたたかさを感じる。轆轤、土、手という関係が器を形成していった痕跡が器そのものに見事に結実して見える。形成期には、先の線文の技法の試みや、異なる形状の器を複合化する実験的な試みのほか、さまざまな釉薬の実験が行われる。今回の展示では、自筆の釉薬ノートも公開されているが、混じりけの多い釉薬を使った溶岩釉やマンガン釉、ピンク釉など、釉薬の多彩な可能性が試されて、作品のバリエーションも大きく広がる。
ところが、そうした表面的な変化とは明らかに違う、大きな変化が訪れるのが円熟期の作品だ。
初期~形成期を通じて常に感じられていた手の感触というものが、円熟期になると消えるのだ。
より正確には、器を作る手がその器そのものと一体化したように感じられるようになる。そこにあるのは、異様な者の手だ。もはや人間の手ではない。
同時にその作品は、鉢が何を入れるものであるか、花器が何を活けるものであるかをとてつもなく深いレベルで熟知しているような佇まいを見せはじめる。
内側からつくる
円熟期の作品は、まさに器自体が固有の生をもつかのようにその存在感を主張していた。花器はそれ自体が花であるかのような印象を帯び、鉢はそれが容れる物の霊力を包み込むような異様な姿をみせていた。古代、花器は単に花を活ける器というよりも、同時に花の霊力を受ける神器であっただろう。花のマナを宿す器だ。すこし前に紹介した『神の木―いける・たずねる』
鉢のような器も、白川静さんが口を「くち」ではなく、神に対して祝詞をあげるときの供えの器を象徴した「さい」と解したように、霊力の宿った物を受けるものだっただろう。そういえば、4月頃に行った根津美術館でみた殷代の饕餮文を全面にまとった青銅器などはまさに呪器そのものだ。
円熟期のルーシーの作品は、その器をつくりだす手の気配が薄れ、まさに花などの霊力がそのまま形となって現れたかのような異様な佇まいを見せはじめる。例えば、この花器などはまさにそうだ。

写真では、伝わりづらいだろうが、この器が実際に空間に置かれていると、その空間が異様なものとなる。それは殷代の饕餮文をまとった青銅器のような見るからに異様な形状はしていないものの、まさに花の霊力が器に宿ったかのような容姿を見せる。
円熟期の作品から、轆轤の土に触れる手の痕跡が消えたのは、器を外から作っていた状態から、物の内部から作るような立ち位置に、ルーシー自身の視点が移動したからではないかと感じる。古代の洞窟壁画を描いた者が馬やビゾンといった動物と一体化した上で、それらの動物を描いたシャーマンだったように、ルーシーも自身が花となって花器を作ったように思える。
そこがポスト・フォッシル展に展示されていたどの作品よりも古代的に感じた所以であり、また、このあたりが一週間前に「オブセッション - Obsession/勅使川原三郎、佐東利穂子」ともつながっていくところである。いずれにせよ、こうした古代的なものへの接近、シャーマン的でアニミズム的なものへのシフトという点では、ポスト・フォッシル展でリー・エデルコートが見せてくれていたコンセプトは間違っていないと思うのだ。それを表現する具体的なモノが今後出てくることを期待する。
といったようなことを考えさせてくれる、とても楽しめる展覧会だった。
この展覧会は、21日まで国立新美術館で開催されたあと、益子陶芸美術館やMOA美術館、大阪市立東洋陶磁美術館などを巡回予定だそうだ。
お近くの方はぜひご覧になってみてはいかがだろう。
ルーシー・リー展
国立新美術館 企画展示室1E
2010年4月28日(水)ー 6月21日(月)、火曜日は休館
10:00-18:00 (毎週金曜日は20時まで)
http://www.lucie-rie.jp/
関連エントリー
この記事へのコメント