オブセッション - Obsession/勅使川原三郎、佐東利穂子

今回は昨日(24日)渋谷のBunkamuraシアターコクーンで観た、勅使川原三郎、佐東利穂子のダンスデュエット「オブセッション - Obsession」について書こうと思う。



このブログでは、初の公演評かもしれない。
とはいえ、公演を見ていない人にダラダラとその内容だけを語ってもつまらないだろう。それよりも僕がその公演を観る前後で感じたこと/考えたことを中心に綴ってみたい。

語り口は以下の5つ。

  • 何かを表現したのではない
  • 痙攣する身体/プレ身振り
  • 重ね書き/削除/変容
  • 定義から零れ落ちるもの
  • 生態学的デュエット


この5つの切り口で話を進めたいが、本題に入る前にすこしだけ、勅使河原さんのことを紹介しておこう。

勅使河原さんは、1985年に結成したKARASというグループとともに、ソロ作品、グループ作品、そして今回のデュエット作品などのダンス作品を国際的に発信している、世界的な評価も高いダンサーだ。既存の枠組みに捕われない独創的なダンスのみならず、音楽や照明、衣装なども含めた総合的な舞台美術も自ら手がけ、非常にユニークな舞台作品を生みだし続けている。
詩のことば、合理の言語」というエントリーで紹介した、昨年末の、連塾JAPAN DEEP4「年末の胸騒ぎ、日本の武者震い」で紹介されていたビデオによれば、海外の視覚に障害をもつ子供たち向けにダンスのワークショップを開催し、その子供たちによる作品も制作していたりもする。
その他の詳しいプロフィールは下記で見てみてほしい。映像や写真もわずかながら紹介されているので、言葉でのみ説明するよりイメージが沸くだろう。

勅使河原三郎オフィシャルサイトhttp://www.st-karas.com/

ついでに、「オブセッション」の作品紹介ページも。

オブセッション作品紹介http://www.st-karas.com/works/obsession.html

前フリが長過ぎてもいけない。本題に入ろう。

何かを表現したのではない

僕は思うことがたくさんあった公演だったが、いっしょにいった子に感想をきくと「むずかしかった」というのが第一声だった。退屈していたわけではなさそうだったが、「むずかしかった」のだそうだ。「アートだね」とも。まぁ、はじめて連れて行かれて観たらそんなもんだろう。

勅使河原さんは、公演のパンフレットにこんな文章を寄せている。

調和よりも不調和、ぶつかり合う事によって感情は強く表現される。音楽ではふきょうわおんによってより深い表現になる。これは意味深い。人間にとって不協和音や不調和な関係性がいかに大事な要素であるか。
整合性のある事だけで全ては成り立っていない。現実には常に不合理や不都合があり、だからこそ定型から逸脱する事が事実を進行させる。その時の違和感が大いなる発見をさせ、劇的な展開を生み出す感情の元になる。胆略的なうれしいや悲しいではないもっと微妙な、あるいは隠れた感情により近づく。強く近づく。人間関係や音楽も、きっと宇宙も「葛藤と融合」「破壊と蘇生」の中にあるのではないか。
勅使河原三郎「公演パンフレット」より

と、紹介してみたが、実はこれはどうでもよい。
確かに作品をみると、不整合や不調和や葛藤や定型からの逸脱が表現されていたということはできなくもない。ところが、それは体のよい説明であって、なんら舞台で示されたものを表していない。いや、現していないのだ。

勅使川原三郎と佐東利穂子という2人のダンサー、そして、音響、照明、数々の舞台装置、さらに後半になって登場するファニー・クラマジランのヴァイオリンが一体となって現しているのは、そうした言葉をいとも容易くすり抜けていく。

そこで何かが表現されているはずだという先入観なしに観れば、「不整合」「不調和「葛藤」「定型からの逸脱」などという言葉は、どれも実際に舞台のうえに提示されたものとは不整合を起こす事に気づくのは容易だ。この舞台は、何かあらかじめ与えられている定型的なものを表現したように観ることはできないのだ。

だからこそ、このダンスは何を表現しているのだろう?と思って観ていると、かえって「むずかしかった」になってしまうのである。

痙攣する身体/プレ身振り

そのダンスする身体は何か僕らが知っている特定の物事を表現しているのではない。むしろ、特定の物事になる前の身体の動きが次から次へと、時には高速で、時にはゆったりと、提示される。高速時は痙攣するように、ゆったりとしている時はアメーバのような原生生物が脈動するように、身体は常に静止せずに動き続ける。

その動きはどれも出来損ないの身振りのようである。
まわりの光や物体との偶然の出会いが身体の動きに一瞬意味となる可能性を与えそうになるが、それは成就する前に、次の動きに掻き消されていく。あらゆる身振りが意味を固定される前に、すり抜けていくのだ。

それは何も表現できない身振りである。日常の意味をもった身振りとは異なる出来損ないのプレ身振りである。出来損ないの身振りに満たされ、舞台そのものが痙攣し続ける。

何かを表現することの前の段階。表現という行為が意味を与えられる前の状態がそこにはあった。形態を成す前のプレフォームとでもいうべき、痕跡が無数に提示され続けた。

ダンサーたちの身体は決して止まることなく、痕跡のうえに痕跡が上書きされていく。意味をなさない身振りが、次の身振りに重ね書きされる。その連なりは僕らが知っている通常の身振りの連続ではない。だから、身振りを重ねることは、前の身振りを削除することでさえある。まさに「不協和」だ。だが、そんな不協和という言葉さえも無意味化するくらい、なんの文脈も形成しないまま、ひたすら身振りはコラージュされ続ける。身体は舞台は痙攣し続ける。そこからは、僕らが知っている意味は一向に浮かび上がってこない。

「むずかしかった」。

重ね書き/削除/変容

さて、すこし舞台から離れてみよう。
『ドキュマン(ジョルジュ・バタイユ著作集)』所収のバタイユの「素朴絵画」という論文に、こんな一文が書かれているという(港千尋さんの『洞窟へ―心とイメージのアルケオロジー』に引用されているのだ)。

いくつかの異様な線が、偶然によって、何か見た目の類似をもたらし、それが反復によって定着されるようになる。これは、いわば変質の第二段階である。
ジョルジュ・バタイユ「素朴絵画」『ドキュマン』

これはバタイユが、ラスコーなどの新石器時代の洞窟壁画について、語った言葉だ。

それらの壁画のなかに、マカロニ図法と呼ばれる、指をやわらかい粘土質の表面に突き立てながら手首を回転させて描いた図形が見つかっている。見た目はマカロニというより、もう少し細めだが、茹で上がったパスタのように見えるため、その名で呼ばれる。

抽象的な形態のものもあるが、アルタミラ洞窟などにはマカロニ図法で描かれた牛の頭部も見つかっている。この牛は決して、最初から牛を描こうとして描いたようには見えない、ライン(マカロニ)の動きがはっきりとわかる。むしろ、指を適当に粘土の上に走らせているうちに牛に似ていることを発見したかのようだ。まさに先のバタイユの引用にあるとおりである。「いくつかの異様な線が、偶然によって、何か見た目の類似をもたらし、それが反復によって定着されるようになる」と。

このマカロニ図法を使って描かれたもの以外でも、旧石器時代の洞窟画は、鍾乳石の膨らみや亀裂を利用して、それを馬やビゾンの背中のラインなどにあてて描いているものが多くあるという。それはあらかじめ何か頭にあるイメージをキャンバスに向かって表現しているというよりも、洞窟の壁面に偶然動物を発見したかのようである。

ところで、牛の頭部になるまでは至らなかったマカロニ図法で描かれた抽象的な図形のほうは、何かしら具体的な事象との類似を発見されるなく、放置されたのだろうか?
その放置された図形こそが、実は、昨日の舞台で繰り返し提示された出来損ないの身振りに似ているのだ。

定義から零れ落ちるもの

とはいえ、2人のダンサーが次々に提示してみせる身振りというのは、実は、どれも僕らが日常知っている身振りに似ているものでもあった。
無意味に痙攣するダンサー2人の身体は、一見僕らが見たことのないような身体の表情を見せているように感じられるが、実はひとつひとつの身振りはそれほど異様なものではない。それが異様に見えるのは文脈を欠いていること、速度が非日常的であること、何度も反復されることなどから来るものであって、個々の要素としての身振りはそれほど不自然なものではない。

むしろ、僕らの日常の文脈や定義された世界をすり抜けていく、何かに似ているが何物でもない無数の身ぶりが連続して現れては消えていくということ自体が、ダンサーたちの身体を異様なものに見せるのだ。その身振りは境界線上に-際に-立っているとはいえ、決して、あちら側の世界のものではない。

異様なのは、どちらだろう? ダンサーたちの身振りか、それとも、その身振りを捉えようとする僕らの物事の見方だろうか。ダンサーたちの身振りが実はそれほど異様ではないことがわかったいま、その答えは自ずと知れる。

ダンサーたちの提示した身ぶりは、実はこの日常においては見落とされてはいても、いまもここに存在している。ただ、ぼくらの偏った抽象化の方法がそれらを見えなくしているだけなのだ。

人間は抽象化する動物だ。大雑把にいうと抽象化とは認識だ。
認識のためには、抽象化しないといけない。見たまんまでは認識できない。触れたまんまでは認識できない。適当に余分なものを切り分けて削ぎ落としてこそ、人ははじめて認識できる。

だが、人はいつも新しく認識しているわけではない。ありものを使って、その一部をすこし変形させて、すこし違う認識をつくるということもある。他人と話をしてるときなどはそういうことが頻繁に起こっているはずだ。互いに相手の言葉を拾いつつ、自身の認識を調整する。
ところが、最近ではやたらと「定義」を求める人が増えている。調整する中で認識の決定を行うのではなく、はじめから調整済みのものをくれ、というわけである。調理できないからお惣菜をくれ、というわけだ。いや、この場合は本当に刺身が海で泳いでいると信じているのかもしれない。

だが、実は世界にはそんな調理済み、調整済みのものばかりが存在しているわけではない。どんなに人工環境化された現代であってもそうである。定義されたものばかりがあるわけではない。調整も整合も都合も合理もすり抜け、逸脱しているものはいくらでもある。ところが、僕らのおかしな抽象化がそれらを見えなくしている。

Perfumeも『ワンルーム・ディスコ』で歌っているではないか。

昼間みたい 街の明かりが 星空を見えなくする

と。

ある認識を与えようとする光が、別の光を見えなくするのだ。それらは牛になりきれなかったマカロニ図法の線であるが、あひる/うさぎの図のように、僕らが固定観念を捨ててみれば、実は意味が浮かび上がってきたかもしれない身振りなのである。

生態学的デュエット

こう書くと、2人のダンサーはまったく何の制約もうけずに動きまわっているかのように思われるかもしれないが、実はそうではない。
舞台上に配置された椅子やテーブル、2人の身体を照らす照明、そして、生で舞台上で弾かれるヴァイオリンの音などにぶつかり、2人の身振りは影響を受ける。それは偶然の出会いかもしれないが、洞窟に馬やビゾンに似た切れ目を見つけた古代人のように、その出会いはダンサーの身体に影響を与える。

勅使河原さんの有名な作品の1つに「ガラスノ牙 - Glass Tooth」がある。一面にガラスの破片が散りばめられた舞台の上で、勅使河原さんは踊る。とうぜん、勅使河原さんが動くたびにガラスは音を立てながらさらに小さくくだける。その危険な変化にとうぜん勅使河原さんの動きも影響を受ける。

モノが動きをアフォードする。生態学的ダンスとさえ言ってもいい。

今回は、そのモノや光、音とダンサーとの関係が、男女の関係にも延長されていた。男女2人のダンサーが決して交わることのないまま、互いに影響を与えていた。そこには意味をもたらすコミュニケーションは永遠に発生しえないが、かといって、両者は無関係というわけでもない。その関係はまさに生態学的だ。生態学的デュエットである。

僕らは日常的にあまりに自分が住む意味の世界に閉じこもりすぎている。
だが、世界の、そして、自分たち自身の動きを、無理に物語の文脈に回収する必要はない。
なぜなら世界には僕らが知っている物語には登場しない多数のものが身体に語りかけているからだ。同時に僕らの無意識も身体に語りかけている。

勅使河原さんがパンフレットに綴ったように、「定型から逸脱する事が事実を進行させる」のではないだろうか。

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