家事の単位を考えながら

柏木博さんは『玩物草子』で「家事は楽しいのです。そして生活にかかわるさまざまな道具や装置が好きですし、それを使うこともその手入れも面白いのです」と書いている。さっき普段より多い量の唐揚げを揚げてみて、もしかしたら少量化が家事をつまらなくさせている一要因ではないかと感じた。

一作業単位の作業の少量化

少量化。仕事でもそうだが、あっという間に終わってしまう作業というのは、エンジンがかかる前に終わってしまうので意外と面倒に感じる。逆に時間のかかる単調な作業は、やっている内に面白くなることもある。

例えば、500とか600とかの大量のデータをKJ法で、ほぼ一日がかりで読み解く作業をしている場合などはそうだ。根気のいる作業だが、やっている内に面白くなる。全体のつながり、視野が明らかになってくるからだが、作業の手間自体も実は楽しさの要因だと思う。

ところが、あらゆる場面でこの楽しい手間が失われている。手間がかかる面倒なことが避けるべき事柄のように一元的な価値付けがされ、それを疑わない人は少なくない。特に自分の仕事のマネジメントができない人はそう。同時にその人は自らの発想がどのように生まれるかわからず計画的にひらめけない。

暮らしのスケール

家事に話を戻せば、核家族化やひとり暮らし者の増加により、ひとつの家事作業量があまりに小さく単位化されている。掃除でも洗濯でも楽しさにつながるアドレナリンが出始める前に終わってしまう。

核家族化という生きるためのコミュニティの最小単位化が、主婦を孤立化させたのではないかと思う。かつては井戸畑会議的に、何人かで共同して行われていた家事作業が孤独な作業に変わってしまったのではないか。孤独な作業では、コミュニケーションしながら作業するという頭と身体の快楽を同時に満たすシーンも生まれにくい。

どう生きるのか?

なぜデザインする必要があるのか?
これからも開発を続ける必要があるのか?

それを問わずに惰性的にデザインすること、開発することが前提になっているのなら、中身がどんなに立派でも、それは作り手側のエゴだろう。

人工環境の再人間化。
これからもデザインし続けるのであれば、そうした思考が必要ではないか。

自身が自然の一部である人間の、個人ではなく、ネットワーク化された人々としての人間が自身の生活、生き方、そして生命というもののリソースやアウトプット、さらにはその過程も含めたマネジメントのプラットホームの開発。

リサイクルというより、ある程度の規模のコミュニティ内で、最低でも一年単位程度のスパンで、物的リソースのマネジメントが可能な、衣食住の仕組みのデザインが必要だろう。

そのフレームワークの設計とそれが用いられる際のコーディネート役がこれまでデザイナーと呼ばれた役割に代わるものだと考えている。

そして、何よりもまず、ものづくりにたずさわる人には、これから人がどう生きるのか、そのために何が必要なのかというヴィジョンの形成が求められている。



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