効率化/蓄積/人間中心のデザイン

いまの社会は何か具体的に実現したい未来像というものをもっているのだろうか。

もし具体的なヴィジョンがないというのなら、日々新しい製品を企画し生み出しているのは何のためだろう。
無名の職人の仕事に光をあて、「用の美」をいったのは柳宗悦さんだったが、いま作られる製品の「用」とは何だろう。むろん、機能をもつのだから、用途はあるだろう。だが、その用途は本当に必要な用なのだろうかはあやしい。

効率的に生きるには?

それに加えて訝しいのは、何故、ヴィジョンを持たずに生産し続けることに疑念を抱く人がこれほどまでにすくないのであろうか、ということだ。

人が効率的に生きていくためには、システムが必要である。
システムといっても、それは情報システムに限らない。食べやすいよう、調理を前提とした食事のスタイルをなりたたせているのもシステムである。食用の植物を栽培し、刈り取り、加工し、加熱し、保存可能な状態をつくり、大量に貯蔵して、一年を食いつなぐために必要な仕組みのすべて。それもシステムである。

かつて、それはいま以上に、作法であり、しきたりであった。
いまはそれをすべてモノに置き換えられる/られたと勘違いされている感がある。

モノ化できるのは、ごく一部

しかし、モノに置き換え可能なのはごく一部でしかない。モノは作法を一元的に限定しないからだ。

それは椅子の使われ方を想像すればわかる。椅子は必ずしも座るために用いられない。背もたれに上着をかけたり、高いところにあるものをとる際の踏み台にも使われる。モノの形が必ずしも作法を一元的に決めることはないからユーザビリティーが問題になったりするのだ。
また同時に1つの解決は、別の問題の根源でもあるのだから、必ずどこかに人による使い方の工夫が求められる余地はでてくる。

何を効率化するのか?

そもそも「効率的に」という場合に、何を効率的に使い、何を効率的にセーブするかを再考する必要があるだろう。

いまはとかく、自分自身の労力や鍛錬や不快さや、あるいは具体的な金銭の節約に主眼が置かれがちだ。エコといいつつ、それはエコロジーではなくエコノミーな節約だったりすることはすくなくない。

労力を節約してラクに。鍛錬などせずとも誰でもできる/わかるのがいい。
だが、それらは本当に節約すべきことだろうか。
すくなくとも、いま以上に節約すべきことだろうか。

労力や鍛錬を惜しむことで失われることはすくなくない。
快適さを追及することでなくなっていくことがある。

自ら考えて行うことはその人自身に気づきと知恵の蓄積をもたらす。暖かい部屋は、味噌や漬物の自家生産に不向きな台所を生み出した。

それは果たして人間のためのものづくり、デザインなのだろうか?
目の前の手間を省かせるだけのソリューションを作り出すことが、人間中心のデザインと呼べるのだろうか?

近視眼的デザイン

あまりに視野が狭過ぎる。きわめて近視眼的であり、目先の利だけみて、それによってどんな変化が起こるのかが考えられてなさすぎるのだ。
デザイン思考は、確かに世界を変える。だが、変わった世界がいまよりよいとは限らない。

近視眼的なものづくりをどうにかしないといけない。
それは生産や開発の問題ではなく、経営の問題である。ただし、一企業の経営の問題ではなく、社会の経営、人間の生き方の経営の問題だ。
何をどこまで中央集権的な大量生産に任せるのか、何をモノのもつ機能に頼るのか。知恵をどこに蓄積するのか。

システムを普通の人の暮らしのなかでも見えるように

もうひとつ。システムをもっとシンプルにして可視化する必要もある。
普通の人が日々の暮らしー衣食住に用いるものは特に、だ。

普通の人が日常的に使うシステムは、使う人自身の手に返してあげたほうがよいだろう。ガジェットとしてなんでも外部化してしまうのではなく、その人自身、あるいはそのコミュニティに蓄積される知恵をという形で維持、保存できるようにする方向で、効率をかんがえなおすべきだ。

人々の作法化された知恵とともに、システムを形成する道具類は、効率的な経営を支える作法が滞りなく行えるような舞台装置として機能するよう、そこで行われる作業が可視化されたモノとして設計される必要があるだろう。

モダンデザインという規範を失って久しい、人間中心のデザインはこうした視点で1からやり直す時期だと思う。


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