2010年05月05日

際立つ者に

際立つ。際に立つ。
真ん中にぬくぬくといたのではわからないことが、中心を逸れて、際に立つことで見えてくる。

世の中の際。領域/分野の境界。意識と無意識の境目。
自と他の交わり、混ざり合う際で、異質なモノと出会うことから何かがはじまる。逆にいえば、そうした際にこそ、はじまりはある。入学式も成人式も本来そうした際に立つ節目であるからこそ、そこから何かがはじまる可能性をもっていたはずだ。

中心からは何もはじまらない。
中心には予定調和だけがある。そこにいる限り、停滞が唯一の友達だ。

中心は多くの場合、自分である。
自然にしていたら、際からは常に離れていることになる。
だから、際立つためには、意図的に自分から離れないといけない。

無関心

自分の関心のないこと、知らないことに、いかに目を向けられるか。

自他の境にある際に向かうには、何よりみずからの無関心をどう戒めるかを考えなくてはならない。それにはみずからを意識的に駆り立てる必要があるだろう。毎日身体を鍛えるエクササイズを続けるのと同程度の意識的な取り組みが必要だろう。

人は無関心でいるほうが楽だ。自分の関心の外にあるものに関心を示すのはそれなりに骨が折れる。

知らない言葉、不慣れな文脈、勝手の異なるお作法。そうしたものがすべて障害となって行く手を阻む。そうした困難を乗り越えて進むことが、自身が住みなれた領域の外では頻繁に起こる。

際に立つことを人が億劫に感じて、それをしようとしないのには、そうした苦労を厭う無精な姿勢が大きな原因となっている。

だが、必要なのはエクササイズなのだから面倒だからやらないというのは根本的におかしい。負荷をかけて鍛えるのがエクササイズである。負荷を嫌ったらエクササイズにならない。

関心がないから無関心なのではない。
エクササイズを怠けて感度が育っていないから関心がもてないのである。
自分を中心とした円の外側へと向かう脚力が足りないないのだ。

交わり

他者と交わることで何かが生まれることがある。
だが、大抵の人はみずからの領域で他者と交わろうとするから、何も生み出せない。

他者との交わりを望むなら、他者のほうへ出向かないといけない。
自身の領域ではなく、他者の地で交わりをもとめるのだ。

とうぜん、そこでは異質なもの同士の交わりが起こるのだから、誤解は避けられない。よく誤解のないよう、ことばなどの表現を定義したうえで用いることをもとめる人がいるが、定義などが有効なのはごく近い距離にいる他者に限られる。
より遠くの他者が相手では定義に使ったことばにさらに定義が必要になったりして埒があかない。だからといって誤解をおそれ、交わることができないのであれば、そもそも意味がない。

賢明な人なら気づくだろうが、誤解こそが新しい何かを生む要因なのだ。際にある魅力あるもの徒歩は、その誤解にほかならない。誤解をおそれたり、いちいち定義をおこなったうえでしかコミュニケーションできないのでは、際立てない。

異分野/脱分野

フィールドを勝手に分割して、そこに自分の居場所をつくって安心してしまってはいけない。自分の関心のあるキーワードやタイトル、テーマ曲というものにだけ反応したり、それ以外を自分には無関係だと切り捨てることを賢い取捨選択だと思ったら大間違いである。むしろ、その思い込みによる選択は道を誤らせる。

既存のカテゴリーだからといって安心するのももってのほか。単にそれは集団的なひきこもりのようなもので、ひきこもっている数が多いということ以外に取り柄はない。
既存の分野の外にでないのも結局のところ、自分の領域からでないのとおなじだ。

領域に意味があるとしたら、それは際をもつということだけだ。際があることで異分野と交わる場所が明らかになる。その場で分野を超える脱分野の交わりをなすこと。そうした旅路に向かう脚力をもった人がもっとでてくるといい。
posted by HIROKI tanahashi at 14:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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