あきらめる

なかなか自分自身でも実行がままならなくて、まだまだだなと思っているが、あきらめることが何より大事なのではないかと薄々気がついてはいる。

期待しない

何かを成そうとすれば実はそれをあきらめなくてはいけないのだと思う。
あきらめた瞬間から、ことはうまく回りはじめる。

だが、なかなかあきらめるというのは簡単ではない。あきらめきれずに期待してしまう。その期待というのがやっかいた。期待がことをうまく運ばせる邪魔をする。

だから、あきらめるというのは単に自分では何もせずに他人がどうにかしてくれるのを待つことではない。
逆なのだ。他人がどうにかしてくれるという期待をいっさいあきらめることなのだ。

自分でどうにかしない

と同時に自分でどうにかしようとすれこともあきらめなくてはいけない。他人に期待することをあきらめろといいつつ、自分でどうにかしようとするのもあきらめるというのはき酷かもしれない。

だが、そうなのだ。だから、あきらめるのはむずかしく、それが何かを成すために必要と思っているだけでは、そうできないのだ。

自分でどうにかできることなど、たかが知れている。だからといって他人や自分以外のものに期待している限りは何もできやしない。だからあきらめる必要がある。ただ、それは何も考えずに成り行きに任せることではない。考えて考えて考え抜かなければ何も出てこない。
目の前にないものを想像して想像して想像しつくさない限り、自分の想像=期待を超えるモノなど出てこない。

忘我

他人に認められようなんてする欲望を捨てよう。
他人が理解してくれるはずだなんて甘い期待はいらない。
自分には何かを成す力があるなんて根拠のない過信は不要だ。
答えを見つけるために何かの方法論をあてにするなんて愚の骨頂だ。
誰も教えてくれないのは当たり前。教えることなどできないし、学べることさえ大してない。
自分の限界なんて凡人にわかるわけはないのに、勝手な限界を設定して偽のあきらめで自分を守るなんて愚しすぎる。
想像力の欠如は果てしなく大きい。その欠如を補う努力にこれで十分ということはない。言葉や目の前にある事柄を常に疑い、その先にあるものを追いかけ続けるのだ。人の言葉に左右されず、人の質問に文字通り答えればよいなんて安直な考えも捨て、そして、何より自分を疑うのだ。

忘我。
そこがスタート地点である。

はやくスタートが切れる準備をしよう。

この記事へのコメント

  • 小谷妙子

    あきらめる・・・私は声楽を教えています。1人の生徒があきらめるとは「明らかに極める」と書くんだぜ・・とつぶやき遠くへ行きました。今もその意味はわかりませんが。
    私はまだ極められず、この地球で空気を振動させ、誰かがそれを音と認識したときのみ成立する音楽の道を歩き続けています。音はエネルギーで消滅することはなく今も法隆寺や出雲大社にはそのときの声や音が漂っているのかも知れないと思い、耳を澄ますのです。
    2010年05月31日 12:27

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