前に書いた「姿勢と動作と気分、そして、モノの形」にも関連する、床坐と立ち姿勢と室内空間との関係について。
あるいは生活文化の方面から人間工学というものを再考するこころみのきっかけとして。
台のない台所
戦後には、戦争で焼けた都市の台所の復興にあわせて農村部でも台所改善の名の下に、それまでの土間にかまどが据えられた形の台所から、いまのキッチンによくみられるような板間にキッチンセットを置く形の台所への変更がなされたという。その際にはいちお都市型に対して農村型のキッチンが提案されたようだが、名前ばかりでその実態はほとんど都市型のものと変わらなかったようだ。
先に土間表現をPタイルに代えれば都市型台所にみえる、といった。これはひとつの重大な事実をしめしている。都市型台所は台所を土間化したということである。高床の板の間はみずからもそこに坐れる広い調理台として機能していた。ところが都市の台所では、そこが坐ることのできない、調理途中のものやできあがった料理を置くことのできない不浄な土間に変質させてしまったのである。山口昌伴『台所空間学』
これは僕自身が自分で家で料理をしていても、作業をする場や作業したものの置き場に困るということは頻繁にあるので、よくわかる。
キッチンにベンチを置いているので座ることはできるが、そこで作業をすることはできない。時には、そのベンチが作業後の食材を置く場所としても使っているが、そうなると今度は座る場所がなくなる。特に調理時間のかかる料理をする際には不便なこと、この上ない。
結局、床に直接座ることになるが、それなら高床式の板間が調理台として使えたほうがどんなに便利だろうか。
日本の都市の台所では、調理台なしで調理するという、日本の主婦にとってはじつに苛酷な結果をもたらした。台所とは、台のある所と書かれている。その台がなくなってしまったのだから事は重大のはずである。山口昌伴『台所空間学』
道具だけでなく、作業をする人間自身の身体の置き場に困るのがいまの台所である。
文化抜きの人間工学
ところが、その台所がまったく作業者の効率を無視してつくられたのかといえば、これがそうではない。むしろ、その反対にいまの台所はキッチンで作業する主婦の作業効率を一番に考えてつくられたものだ。その実際の普及は戦後、あらゆるキッチンが焼かれた後の復興期にようやく実現されることになるのだが、戦前にはすでに台所設計の指針として、歩数節約、動線重視が打ち出されている。ようするにそれは同時期のバウハウスなどの西洋のモダンデザインの流れの受け売りなのだが、受け売りであるがゆえにそこに含まれていた人間工学的な観点での設計が成されているのだ。
ただそこで何が問題であったかといえば、その人間工学的な視点には、すでにあった食文化の作法をいっさい考慮しなかったことだ。ドイツで生まれたモダンデザインの受け売りなのだから当然であろう。
ただし、歩数や動線といった料理をおいしくつくることとはまるで無関係な視点のみが考慮されれば、それまで長い時間を培ってきた食文化が失われていくのもこれもまた当然ではないか。人が生きるために必要な食事を用意するという観点が欠如していて、調理も単に他の労働といっしょくたに作業効率のみを視野にいれて設計されたのだ。それではそのハードウェアが料理に向かないのも致し方ない。
人間工学的な設計には、そうした間違いがある。それは人間中心設計でも同様だ。文化という面をみずにいくら観察やらテストやらで人びとの身体の動きや認知や感性的な理解を増やしても、より社会的でコミュニティ的な文化というものの影響はみえてこない。
それも考えずにハードオリエンテッドなアプローチでモノばかり作り続けてもまったくの無意味だ。いや、むしろ、文化を破壊するという意味では罪でさえあるだろう。
このことはモノの設計に関わるあらゆる人がもう一度考えなおすべきことではないだろうか。
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