わからない言葉がでてきたら

他人にわかる言葉で話したり書いたりというのは大切だ。それはあらためていうまでもない。

ただし、それを実行するのは容易ではない。
どんなにそれを意識したとしても言葉を出す側は、必ずしも相手のわかる言葉を選択できるとは限らない。相手がどの言葉がわかり、どの言葉がわからないかを正確に知っていることなどないのだから。
容易ではないというより、必ず相手にわかるように話すということは不可能だ。

その場合、わからない言葉を聞いた側がどうするかが問題となる。
さて、そうした場合、あなたはどうしているだろうか?

わからないままにしない

わからない言葉がでてきたら、わからないままにせずに、ちゃんと「それは何?」とか「それは誰?」「それはどういう意味?」と聞き返すことをしているだろうか?
していないとしたら、何故それをしないのだろうか。

さすがに、セミナー会場での講師の言葉のように1対多の状態ではいちいち確認することはできないにしても、1対1もしくは3、4人程度で話しているような状態であれば、わからない言葉がでてきたら、うまくタイミングをみて、それが何を意味するかをちゃんと確認するということが大事だ。

わからないことをわからないままにして、それでいて相手の話がわかりにくいというのは怠惰すぎる。相手の話をわかりやすくするためにも、わからないことがあれば質問しないといけない。質問すれば相手にも「この人はこういう言葉がわからないのだ」という避けるべき用語の勘どころが伝わるというものだ。

双方のギャップはそうやって両者のコミュニケーションのなかで埋めるのがいい。それが話し手からの一方向の流れだけになれば伝わるものも伝わらない。聞き手は質問する義務があると認識したほうがいい。

小さな知的欲求

また、もうひとつ、わからないことがあったら、どんどん質問すべきと思うのは、結局、日常的にそうした小さな知的欲求を表にするくせがついていないと、それより大きな知的欲求とか好奇心を動かす力がつかないと思うからだ。

何故?とか、それは何?と思うのにも力がいる。脳だって所詮身体の一部である。普段からやりなれていないことは突然やろうと思ってもできない。疑問をもち、それを適切な問いに変換するのも、結局は身体能力だ。

問題意識がなかったり、どうすればいいかとあたふたするばかりで問題の打開に踏み出せないのも、結局、普段から他人の話のわからないことをその場でタイミングよく質問により解決するという小さな知的欲求を満たす訓練が足りないからだと思う。

わからない言葉をそのままにしない。
そういう小さなことから問題発見能力というのは養っていけるものだ。


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