エロティシズム/ジョルジュ・バタイユ

バタイユについて語ることはむずかしい。
このバタイユの著書『エロティシズム』についても同様である。

本書の冒頭において、バタイユは、「エロティシズムとは、死におけるまで生を称えること」だと言っている。

バタイユは、生殖のための性活動を有性動物と人間に共通の事柄としながらも、その生殖のための性活動とエロティシズムに対立するものとしてみる。つまり性活動そのものが本来的にエロティックなのではないということだ。性活動がエロティシズムとなるには、別に理由が必要なのだ。

「本質的にエロティシズムの領域は暴力の領域であり、侵犯の領域である」というのが、バタイユが問題にするエロティシズムである。エロティシズムは禁止と侵犯という、人間以外の動物には与えられていない二重性のうえではじめて生起する。動物にエロティシズムはない。

その線上で、バタイユは死を存在の連続性と関係付ける。個体はほかの個体と異なっている。個体と別の個体のあいだには不連続な深遠がある。「私たちのあいだのいかなる交流も本源的な相違を消し去ることはできないだろう」とバタイユはいう。しかし、同時に「この深遠は
私たちを魅了することがある」ともいう。ある意味で、この深遠とは死であり、死が私たちを魅了するのだということをバタイユは示している。生によって個に分けられた各個体は死によって連続的な存在となる。

決定的な行為は裸にすることだ。裸は閉じた状態に、つまり不連続な生の状態に、対立している。裸とは交流の状態なのだ。それは、自閉の状態を超えて、存在のありうべき連続性を追い求めるということなのだ。
ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』

動物は着衣ではなく裸である。人間だけが裸を禁止している。だが、禁止しているからこそ、侵犯が可能になる。
人間だけにエロティシズムが生起するのだ。

むろん、事はそう単純ではない。

労働と浪費

そういえば、以前に「バタイユ/酒井健」でも、こんな引用をした。

知の衣を脱がす、あるいは切り裂くことこそが、非―知の第一の働きである。そうなると、人は不安に駆られるが、その不安を笑い飛ばすというのも、非―知の働きにほかならない。そしてさらに非―知は恍惚を伝達する。恍惚とは、西洋語の原義では脱自つまり自分の外に出ていくことである。

衣を脱がし、恍惚にいたる。
本書でもバタイユは「連続性のなかへ、自分を消し去ってゆく」という表現をしている。

この恍惚、この自分が消し去られた連続性というのは、ある意味、生産的な労働の対極にある浪費に関わっている。
バタイユはこの浪費に着目して次のようにいう。

禁止は労働に対応し、労働は生産に対応している。労働の俗なる時間においては、社会は生活資源を蓄積し、消費は生産に必要な量に限定される。聖なる時間は祝祭に代表される。(中略)祝祭のさなかには、ふだん禁止されていることが許されるし、ときには強要されさえする。(中略)経済の視点から見ると、祝祭は、その度外れな浪費によって労働の時間に蓄積された生活資源を蕩尽するものである。そこには際立った対立があるのだ。
ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』

禁止の向こうに、禁止を侵犯によって超えたところに、つまり禁止によって安定した社会的労働や生産が可能である領域の向こう側に、聖なる領域、至高の領域、そして、エロティシズムの領域がある。そこでは生産に対比される浪費が行われ、そして、システマティックな禁止を超えた過剰な力が揮われる。

原初の人間たちの目には、動物が人間と異なっているとは映っていなかった。それどころか、禁止を守っていないがゆえに、まずはじめ動物の方が人間よりもっと神聖な、もっと神的な性格をもっていたとみなされていたのである。
ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』

神的だとか、神聖なものは、動物的な過剰や生産に対立する浪費性を孕んでいる。しかし、先にも書いたように、それは禁止をもつ人間であるがゆえに魅了され、ときに侵犯により踏み越えられるものである。

エロティシズムは、禁止と侵犯の二重性によって生じる。
同様に、非―知は、単に知らないということではなく、知を目指した極限にあるのだ。

贈与

このように、バタイユが考察するエロティシズムは、経済性とも深く関係している。

禁止や何らかの欲望の断念によって可能になる生産的な労働は、それを犠牲にした過剰なまでの浪費と対立している。
それと同様に、貨幣などを用いた等価交換的な交換は、直接的には価値の提供を要求しない一方向的な贈与に対立している。

贈与する当の者にとって、贈与は、自分の財産の消失である。贈与する者が贈与で利益を得ることもあるが、しかしこの者はまずはじめ贈与せねばならない。この者は、まずはじめ、多少とも全面的に、彼の贈与を得る集団全体にとって増加の意味を持つものを自分に対して放棄せねばならないのである。
ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』

この贈与による財産の消失は、先の、祝祭の度外れな浪費が日常の労働によって蓄積された生活資源が蕩尽されることに通じるところがある。祝祭においては、浪費による資源の蕩尽が人を神秘的な恍惚へといたらせる鍵となっていたが、贈与による財産の消失はどこにいたるのだろうか。

労働=生産から引き抜かれた過剰な財

バタイユは、クロード・レヴィ=ストロースの『親族の基本構造』という近親婚の禁止に関する研究を参照しながら、贈与のひとつの例に他ならない、自らの貴重な財である娘を、自分自身はその財をあきらめ、ほかの家(コミュニティ)に嫁がせる(財を贈与する)ことを、シャンパン酒との関連させながら考察している。

現在でもそうであるように、シャンパン酒はもっぱら贈り物や接待、パーティーに用いられ、日常的に飲まれることは少ない。つまり、それは日常のケの状態のための財ではなく、あらかじめハレの日、儀式や祝祭用に作られた財だといえる。それは先の祝祭の例からみれば、あらかじめ浪費されるために作られたものといえる。
バタイユは「ある種の物品を儀式的な交換へ捧げるということは、それらの物品を生産的な消費から引き抜くということなのである」と言っている。ようするに、それは生産的な労働のなかに埋め込まれた過剰な浪費という「労働の破壊」である。シャンパン酒を生産すること自体、すでに浪費なのだ。

実は、婚姻によってほかの家に嫁ぐ女性たちも、このシャンパン酒と同じである。

自分の姉妹を贈与する兄弟は、自分の近親の女との性的結合の価値を否定するというよりはむしろ、この女を他の男と結びつけ、また彼ら自身を他の女と結びつける結婚のより大きな価値を肯定しているのである。気前のよさを基底にした交換には、直接的な享楽よりももっと広汎で強烈な交流がある。より正確に言えば、祝祭性は、運動の導入を、自己閉塞への否定を前提にしているということだ。(中略)性の関係は、それ自体、交流であり運動である。
ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』

もちろん、バタイユはこうした贈与やエロティシズムの運動性を単に経済的な側面だけで捉えることを拒んでいる。経済的な側面だけで理解可能なほど、エロティシズムも贈与も有益ではない。
それはもっと過剰で浪費的であり、暴力的であって、破壊的だ。そして、それゆえの魅惑的な面をもっている。

バタイユは言う。

「エロティシズムとは、人間の意識のなかにあって、人間内部の存在を揺るがすもののことなのである」と。

難解なところもあるが、ぜひ読んでおきたい名著。



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