だからこそ、学生のうちは枠に縛られずにとことんやる方法こそを身に付けてほしい。学生に対して企業ごっこのような枠組みのなかで考えたり、安易に思考の方法を学ばせるような教育は感心しない。そんなことは企業で働くようになればいくらでも実践的に学べることだし、いくら精巧に組み立てたところで「ごっこ」はごっこでしかないからだ(失敗したり結果が出せなかったからといって給料を下げられたりはしないのだから)。
そうではなく企業に入ってからではなかなか学べない、枠組みを外れて無茶をするようなことこそを学生には取り組んでほしい。結果をスマートに求めるのではなく、過程がなんの結果にも結び付かないような過程の過剰にこそ身をゆだねてみてほしい。
枠組みから外れる過剰さ
もちろん、これは企業で働く社会人にも求められることであるはずだ。スマートに結果を出そうとすれば枠組みから外れることなく賢く既成の枠組みに乗っかって、未来の結果のために現在の行動を犠牲にするという選択は大いにありえるし、実際、それが必要なシーンは山ほどある。だから、それはやればいいだけ。やることが肝心だ。
しかし、仕事をしていれば必ずそれではうまくいかない場面というのがある。既成の方法論やフレームワークに従っているだけでは解決しない問題がある。また既成のものの見方では発見できない問題もある。
その場合にはいかに既存の枠組みから外れて思考できるか、行動できるかが問われるはずである。
つまり、それはこうしてああすれば結果が出るという現在時を未来のために犠牲にする枠組みから外れて、未来を犠牲にして現在の闇雲な手探りの過剰さにいかに身をゆだねられるかということである。
堕落せよ
ところが、これはむずかしい。結果が出るかわからないこと、目的が何かもわからず、かつ普段やってもいないことに身をゆだねることは、人間にとっては非常にむずかしいことだ。だから、人はそういう場面に出くわすと、それをやることで結果が出た事例がないとわからない/できないとか、何のためにそれをしなくてはいけないのかとかと疑問を口にする。あまりにも未来のために現在を犠牲にする生き方に慣れてしまっていて、未来=結果を問わずに今の時間の過剰さを生きるということができなくなってしまっているのだ。特に会社で働くという公的な時間においては。
これに対して適切な処方箋というのはない。ただ、とにかくひたすら自分がいまやっていることを信じて(それには信じるに足る根拠はすこしもなくても!)、そこから自分なりの結論を導くという作業に身をゆだねてみろとしか言えない。
未来=結果とつながった枠の中で自動的に生きるのではなく、むしろ、どこに向かうのか、まるで見えない堕落の道をとりあえず一定期間だけでもいいから進んでみることも必要なはずだ。
坂口安吾は、人は堕落し続けることはできないと言った。
けれど、堕落し続けることはできないとしても、一定期間内という制限を設けることで堕落といういまの時間を生きることは可能である。
そして、それがリスクをともなう遊びを仕事のなかに取り入れるということだろう。
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