常識という無知

時々驚かされることがある。
常識人のアナーキーさに。

「無理せず流れにまかせればいい」などと、近代以降の「進歩」「改善」を基本的な行動指針を根本から覆すような言葉をさらっと口にだす。
このブログにも明らかなように時々、近代以降の方向性に対して批判的な考えを口にする僕さえも、口にすることを躊躇してしまうような言葉をいともたやすくさらっと。そんな根本的な近代否定をなんの迷いもなく口にされると、僕のほうが驚いて近代擁護側にまわってしまうくらいだ。

もちろん、それを口にした本人にそんな深い考えはない。
きわめて常識的に「無理なく」という保守的な態度を表明しただけだろう。

けれど、だからこそ恐ろしい。
無知であるが故に、過去に人びとが努力して行ってきたことを、さらっと何気なく否定してしまう、知を欠いた常識というものが恐ろしいのだ。

現代におけるアニミズム

自ら口にしている言葉が何を意味しているかをわからないまま、当たり前のように日常的に用いることほど恐ろしいものはない。無知ゆえに、自らの言葉の意味するところを知らずに、直感的に目の前にあるものを否定することがあるからだ。

そうした中身のない言葉を何の疑いもなく信じている人たちの空虚な常識によって社会の方向性が決まることは多く、いったん決まってしまって動き出せば、その方向を転換するのは容易ではない。それが恐ろしい。誰も望んでいないことが、空虚な言葉のイメージによって形を成し、形があとから中身を充填してしまい、誰が望んだものでもない形が常識となって固定され、多くの人をがんじがらめにするからだ。

中身のない言葉に動かされている、その様は現代におけるアニミズム以外の何物でもない。
象徴として扱われる対象が不気味なトーテムや石像などから、一見スマートな言葉に変わっただけで、中身をともなわない空虚な象徴に呪術的に縛られている状況に変わりない。

根本的な知識は何一つもっていない

それが一般的な人びとだけでなく、もっとも論理的に思考する人びとと考えられるであろう科学者にさえ当てはまることをランスロット・L・ホワイトは指摘している。

諸科学がもっている最も発達しかつ基礎的なものが、その行いつつあることの何たるかを知ってはいないのだ! 「測定すること」もむろんその例にもれないが、最新の諸理論の述語では、測定ということは一体正確には何を意味しているのか? 物理学者たちは知らないのだ! 理論物理学はその本質を成している数値の数々がどのようにして成立するに至るのかを知らないのだ! こうして、現行の物理学理論は不完全であり、したがってまた人を誤らせるにちがいない。

「われわれは根本的な知識は何一つもっていないのだ」とホワイトはいう。また、ソクラテス同様に、無知の知に戻るべきだともいう。

そのとおりだという気がする。「なぜ?を問う力」や「知っているということの呪縛」といったエントリーを書いたのも、それが気になっているからだ。自身が知らないということを無視したままにできる空隙を僕らはあまりに放置しすぎている。

常識という無知

むろん、自身の無知に気づかず、日常を過ごしてしまうことは、この過度に言語をはじめとする人工的な環境、システムに晒されて生きる現代人には、ある程度避けようがない。
しかし、その自らを取り囲む人工物すべてが、元から空虚であったかといえば、むしろ逆だろう。言葉にしても物理的なものにしてもルールやシステムなどにしても、それら人工物も、形成の段階においては何かを知ろうとし、かつ知ったうえでそれを乗り越えようとする意志の結果として生じたはずである。

それを忘れて固定した形の輪郭だけを僕らは何も考えずにさも大事そうに扱っている。その形骸化した中身が空っぽだというのに。それがどんなに論理的だったり科学的にみえたところで、結局は大昔のトーテムなどと変わらない空っぽの象徴だというのに。

そうした空っぽの箱を大事にするのではなく、むしろ、その箱が生れ出てくる様=プロセスこそに目を向けるべきではないだろうか。

ギリシア語のEidosやSchema、あるいはMorphe、またラテン語のFormaなどは<形態(フォーム)>と訳される場合が多いが、これらの語の意味は「すべての事物をそのものたらしめている資質」にほかならない。もしこの定義をそのまま受け入れるとするなら、すべての哲学と科学は事物の形態について研究する学問、すなわちあらゆる事物の背後にひそむ、そのものたらしめている形成原理を明かすための努力だとみなすことができる。

『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』では、自分の(常識や当たり前の)外に出ることを強調した。
しかし、それでは足りないのかもしれない。いま必要なのは、もっと広い意味での常識の外に出ることだろう。常識や当たり前と考え、その中身を問わずに済ませてしまっている空洞の中身を疑うことこそが必要だろう。

そう。常識に囚われず、アウトサイダーたれ。

  

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