2010年04月01日

なぜ?を問う力

なぜ?を問う力が不足している。

いや、他人に訳を訊ねる力が足りないというのではなく、目の前で起こった事柄の理由を自分に対して問う力がないのだ。
目の前で起きる事柄を当たり前と思って見過ごしてしまうことが多すぎて、すべてがわかったつもりなのか、なぜ?を問うことでちゃんと理解してみようという態度が著しく欠けているのである。まさに前回書いた「知っているということの呪縛」である。

なぜミスは起こったのか?
なぜあれがこれより人気があるのか?
なぜあの場所はいつも混雑しているのか?

目の前で起こっている事柄をなんとなく見過ごしてしまうのではなく、なぜ、それはそうなのかと疑問をもつことができるか? つまりはここでの関心事は問題発見能力についてである。問題が見つからなければ、解決は図れない。改善もイノベーションも起こらない。

目の前で起きた事柄がミスや失敗であれば、なぜ?と理由を問うことはむずかしくないだろう。あるいは、ミスや失敗はない場合でも、自社に比べて他社の人気が高かったりすれば、それに対する、なぜ?を問うこともむずかしくはない。

それらの場合はすでに問題は提示されているからである。あとは問題として引き受け、答えを見い出そうとする意欲があるかないかだろう。

しかし、である。欠けているのは、そういった意欲ではない。

当たり前のことに対して、なぜ?を問う

ここで、なぜ?を問う力が不足していると話題にしたのは、そうした誰の目にも明らかな問題のなぜ?を問う力の不足に関してではない。それも足りていないかもしれないが、ここでは話題にしない。

そうではなく、ここで話題にしたいのは、むしろ、普段当たり前と思って問題とも感じずに見過ごしてしまっているような事柄に対して、なぜ?を問う力が不足しているといっているのである。それこそが本当の意味での問題発見能力であるにもかかわらずだ(誰の目にも明らかな問題を見つけるのを問題発見能力といってもしかたがないからだ)。

なぜ彼女はいつもベッドの上で脚の上にノートパソコンを置いてインターネットをするのか?
なぜ彼女はそのとき脚の上に毛布をかけているのか?

なぜ彼女は防水でもない携帯電話をお風呂に持ち込んでいたのか?
それがなぜ新しく携帯電話を変えてから持ち込まなくなったのか?前の機種は買ったばかりでも持ち込んでいたのに。

なぜ?を問うことで目の前で起きている、なんでもない事柄が別の形で見えてくる。目の前で起きている事柄の背景に目がいくようになる。

なぜ?の先に

そこには思いもかけない生活者の隠れたウォンツが眠っているかもしれない。

ベッドは彼女にとっては一番リラックスできる場所ではあるけれど、そのとき、ノートパソコンの置き場には困っているかもしれない。仕方なく脚の上に置いているのだけれど、直に置くと脚が熱いから毛布をかけているのかもしれない。だとしたら暑い夏になったら彼女はどうするだろうか?

お風呂に携帯電話を持ち込んでいたのは長くお風呂に入りたかったからだろう。新しく買った携帯電話を持ち込まなくなったのは保証条件の違いかもしれない。彼女は保証に不満だろうか?それとも高くても防水機能がついたものがいいのだろうか。携帯電話を持ち込まなくなった彼女はお風呂でいま何をしているのだろうか?

人がいま現在行っている行動は必ずしも、そうしたいからしているわけではない。
別の代替手段があれば、そちらを選ぶかもしれないのに、それができないから仕方なくそうしているだけかもしれない。

そうした人びとが仕方なく行っている行動をそれが当たり前だと思って見過ごしていることは少なくない。改善やイノベーションの鍵がすここに眠っているのに、それに気づかずに過ごしている。

現在の行動とその行動を促している背景的な理由としての物や環境との関係性を、なぜ?と問わないことで見過ごしているのかもしれない。デザインとは関係性をいかに捉え、それをどう組み立てなおすかということなのに、その関係性をあまりに安易に見落としてしまっているのだ。なぜ?が足りない。

他社が人気だったり、他店がいつも人で賑わっているのに、自社、自店がそうでないのは、そうした、なぜ?の不足による問題の見過ごしが多いからではないだろうか。

フォークの歯がなぜ1本なのか(つまり、それはナイフだ)を、なぜ?と問うことなしに、その歯が4本に進化することはなかったはずだ。

問題発見能力を高める

現状を打開するには、見過ごされている問題に目を向けなくてはならない。当たり前だと思って見過ごしている事柄に対して、なぜ?を問う力を養い、問題発見の機会を増やす努力が必要だ。

こうした問題発見能力を高めるには、もうひとつ、なぜ?を問う対象そのものを意図的に増やすことも必要だ。対象を観察する力である。

すでに誰かが整理した事柄にばかり触れていても仕方がない。なぜ?を問う対象は、誰かしらの意図によって書かれた文章などではなく、生の現実であったほうがよい。しかも、可能な限り自分で見たり体験した事柄であるほうが望ましい。

目の前で起きる事柄を当たり前と思って見過ごしてしまうのではなく、目の前で進行した事柄の形態はなぜ、その形に形づくられたのかを問う観察眼と考察力が必要だ。

将来を切り開くイノベーションの種を見つけるには、物事の結果を当たり前ととらえて済ませるのではなく、結果よりもむしろ結果が形成された隠れたプロセスこそを見ようとする眼、それを問う考察力が求められている。

 

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posted by HIROKI tanahashi at 21:02| Comment(0) | TrackBack(0) | デザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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