2010年03月31日

知っているということの呪縛

抽象的/具体的という軸に対して消極的態度をとる」では、人は文章を読んでも、自分が知らないことはわからないと書いた。
よほど想像力を使って創造的な編集をしながら読まない限り、未知の事柄を理解するのはむずかしい。文章がわかりやすいという場合、知っている事柄が並んでいて、その既知の並びが総合的にみると、知らなかったことを語っているように思える場合だろう。人は知らない事柄を文章をなんとなく読むだけでわかることはできない。

とうぜん、このこと自体、教育とか学習のあり方を考える上では重要な事柄であるのは間違いないが、今日はその話ではない。

今日の話は、では、どうすれば未知の事柄を既知に変えることができるかということと、知っているということの呪縛に人がいかに囚われやすいかということの2点についてだ。

未知を既知に

未知の事柄を既知に変えるのは実はそうむずかしくないが、その方法がちょっと考えただけではとんでもない迂回に感じられるため、一般には認識されていないのだと思う。

というのも、未知を既知に変えるためには、まずは「わからない」を経由する必要があるからだ。

本を読んでも未知のものがわかることはない。それは実は順番が逆だからだ。わかるためには、それ以前に、わからないということを既知にしておく必要がある。つまり疑問や不可解さを認識しておくのだ。

その場合、疑問や不可解さに出会う場は、知の集積の場としての本や文章、セミナーなどで話されることばのなかではない。疑問や不可解さに出会う場は日常の体験のなかでなくてはならない。

ことばの意味に疑問をもつのではなく、身のまわりで起こった事柄、自分自身が体験した事柄に、その時点では説明できない疑問や不可解さを発見=既知にすることが肝心だ。

説明を見つける

わからないことを体験的には知っている状態をつくりだすこと。さらにそのわからなさを疑問や不可解さの感覚として意識化しておくこと。つまり、説明を渇望するわからなさを自らに抱えた状態にしておくこと。

そこにこそ、文章やことばの中に、未知を既知へと変えるための前提条件がある。

ようは、なんだかわからない説明を要する事柄の体験があって、それに対する疑問や不可解さが意識化されているという条件が満たされてこそ、本に書かれたことばは、「あっ、これはあれだ。なるほど、あれはこういうことなのか」という理解をもたらすのだ。
疑問や不可解さという不安定な状態こそが、わかったという未知が既知へと変わる安定した状態へと人を誘うのだ。

多くの場合、認識されているのが、この本を読んで知識を得るには、それより先にとりあえず体験のなかで困ったり、わからなくなったりすることが不可欠であるということだ。

知っているということの呪縛

ここに既知ということの大きな問題が生じてくる。

既知は未知やわからなさから人を遠ざける傾向があるのだ。

人は何かを知ることで、わからないという不安定さから解放される。不安定であるよりは安定しているほうが、たいていの人は心地好いだろう。

しかし、その安定さをもたらした既知の状態というのは、結局のところ、わかったつもりでしかない。どんな知もしょせんは世界の物事をランダムに抽象化しただけで、世界そのものとごく一部においてしか一致しない。

ところが既知というものは単なるランダムな一部的な世界認識で人を満足させてしまい、本来なら新たに未知から既知へと誘う呼び水となるはずの、疑問や不可解な体験から人を引き離してしまう。なんという呪縛だろうか。

知の偏り

安定を求める志向性が人を知るということから遠ざける。未知の不安定な状態を嫌う人ほど、既知のものに頼りたがる。

話題のニュース、有名タレント、人気ブランド、ベストセラーの本、そして常識。

わからない状態を嫌う人びとがそうしたごく一部の知への偏りを生む。

まるであまり知られていない知は、わかりにくいというのと同様とでもいうかのような状況が生まれる。

知の経済はそのように動いている。



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posted by HIROKI tanahashi at 01:19| Comment(1) | TrackBack(0) | 生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
知の偏りという部分共感するものがありました。
安定を求めるというのは何に根ざしているんでしょうね。未知のものに触れる興奮を味わったことがないからでしょうか。基本的に現状是認が習慣になっているためでしょうか。
ヒトをウォッチングしていると、社会のどこに属するかで、そのヒトの行動パターンが変わってしまうことがあります。ヒトは社会というものを作ったと錯覚していますが、社会性を持ったが故にヒト足るようになった気もしています。
社会は安定を求めているのでしょうか。

なんにしても、知の隔たりは自分で判断することを放棄する危険性も秘めています。情報リテラシー(情報受信活用能力)に対して懸念を持っていますが、そもそもそれを遮断してしまう「既知」という壁の存在は、考えさせられました。

ありがとう。
Posted by 會澤賢一 at 2010年03月31日 06:42
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