その場合、文章によって何かを伝えるというのは、読者が知っていることに関して伝える場合よりも困難さが増す。相手が見たこともないものを認識できるようにしたり、理解できるようにするのはむずかしい。そのむずかしさは必ずしも文章表現だけの問題ではないだろう(文章表現によって伝わる可能性が高まる可能性はあるにしても)。
そして、これは文章表現に限らず、道具や機械、あるいはその機能の一部に関しても同様のはずである。
見たことも体験したこともない道具や機械、機能-つまり、相手にとって新奇な道具や機械、機能-を認識、理解してもらうことは、すでに類似した道具や機械、機能が認知されたものを理解してもらうよりはるかに困難だということだ。
極端な言い方をすれば、人は知っていることしかわからないのだ(もちろん、それは人それぞれの想像力の度合いによって変わってくる)。
抽象と具体に実は差はないのでは?
そこで思い当たったのが、「抽象的すぎてわからない」という、よく聞く言葉。それも結局、おなじことなのだろう。「抽象的すぎてわからない」といわれても実は、抽象的と評される側はさほど抽象的なことを考えたり語っているつもりはなかったりする場合が多いのだと思う。本人にとっては十分に具体的で、現実的なのだ。
もちろん、形のあるモノや固有名詞化されているものだけが具体的であるというなら別である。しかし、普通は目の前で起こった事柄は、形がなくても固有名をもたなくても具体的というだろう。
で、あれば、何か自分が気になる事柄について考えている人にとって、自分で考えている事柄は十分すぎるほど、具体的なはずである。それを世間一般の常識と比較して「抽象的だから」といっても仕方がない。
その場合も「わからない」のは、単に考えている側にとって見えている事柄が、その考えを聞いたり読んだりする側が知らないだけなのだろう。
知らないからわからないのであって、抽象的だからわからないのではない。
抽象的/具体的という軸に対して消極的態度をとる
ここを間違えないようにしたい。何が具体的かは人それぞれの現実感によって異なるのだし、そもそも具体的と感じられるものは実は現実そのものではなく必ず抽象化されているのだから、具体と抽象は必ずしも対極にあるものではない。
抽象的な事柄は単に人目に触れにくく、それを感じとれる人の数が少なく、話題になる頻度もまた必然的に少ないために間接的にも触れる機会が少ないから知らない―わかりにくいのであって、決して抽象的であるという性質それ自体がわかりにくいのではない。実際、抽象化することでわかりやすくなることはいくらでもあるし、そもそも、それが抽象化の役目だろう。
それゆえ、わかりやすさを考える際に、具体-抽象を2つの極と捉えるのは実は適切ではない。
ところで、「消極的」という言葉は、一般的にネガティブな印象で捉えられる。
しかし、二律背反的な対立軸の極を消すという意味では、実はポジティブな意味で用いることも可能ではないかと考えられる。
なんでもかんでもわかりやすさばかりを求めて自身の想像力の貧しさを人が反省する機会がすくない状況では、この具体/抽象の対立軸を消極し、わかる/知っている―わからない/知らないの軸こそを意識化したい。
という具合に、ここ数日、いろいろ考えるなかで、わかる/わからないという評価に対する考え方が自分でもだいぶ変わってきた。特にわかってきたのは、世の中で言われる「わからない」がほとんどの場合、知らないということに近いということだ。
知らない人にもどうしても知ってもらいたいという強い欲求がないのであれば「わからない」という声に過敏なる必要はないだろう。
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この記事へのコメント
38円
んだんだ
「抽象的でわからない」と言わるのが嫌で、それを回避する努力に疲れたり。なんでいちいち...
抽象化はわかるための必要手順ということ自体がわかっていない層に付き合うのは疲れる。という無駄が少し多すぎるような気がします。
改善のため、「抽象的すぎてわからない」の地位をもう少しひきずり落とした方がいいかもです。