特に海外の文化を扱ったものは、人名や地名に馴染みがなく、イメージがわかない。
それ以外にも馴染みのない分野の本を読むと、その分野の専門用語が登場して何を言ってるのかわからないこともある。かといって専門用語を使うのは、内容をわかりにくくするからよくないなどとは思わない。専門用語がわからなければ自分で調べればよいからだ。
例えば、そのわからない用語を調べるために、別の本の力を借りる。そのことで読む本が増える。
それが本来読書の楽しみのひとつだったのではないだろうか。
過度に平易なことばばかりを使った本や、簡単にわからない用語を調べられるインターネットはそうした読書の楽しみを奪っているように思う。
知らないのは名詞だけではない
話を戻そう。知らない単語があるというときの単語はいわゆる固有名詞だけだろうか。いや、一般名詞でもいまは使われなくなった道具などの名前ならわからない。いやいや、もっとよく考えてみると、○○を知らない、という時の、○○に当てはまるのは実は名詞だけではないはずだ。
ある文化に存在する名詞がほかの文化ではそれを一言で表す単語が存在しなかったりすることがあるように(例えば、お湯とhot water)、目の前の世界に存在したり繰り広げられたりする事柄を指し示すのは何も名詞とは限らず、複数の単語の組み合わせのこともあれば、文章であることさえある。
その場合、書かれていることがわからないというのは、文章がわかりにくさのせいだろうか、あるいは固有名詞を知らないから文章がわかりにくく感じるのとおなじだろうか。
文章がわからないのか、物事を知らないのか
別の言い方をするとこうだ。知らない固有名詞で表現された人や土地を知らないのと同様に、文章で表現された事柄にいままで出会ったことがなかったり馴染みがなかったり、あるいはいつも接していても気づいていなかったりした場合、それは文章がわかりにくいのか。それとも、単に書かれた事柄に対する知識が足りないのだろうか。
もちろん、この問いに答えはない。文章の側にも、読む側の知識や想像力の側にも、問題はあるからだ。
想像力。そう、想像力がこの問題をとりあえず迂回して、知らないことでもわかるためのキーだ。
もちろん、書く側にとっても、読む側にとっても。
個人的に感じたこと、体験したことを語る
この想像力が書く側にも、読む側にもないと、個人的に感じたことや体験したことが語れなくなってしまう。もしかしたら自分しか気づいていないかもしれない隠れた世界の法則などを他人に伝えようと思えば、書く側は多かれ少なかれ読む側の想像力に期待するしかない。相手の想像力に期待しながら、読む側が体験したことのない事柄をどのようなことばで表現すれば想像力を喚起できるかと、自身の想像力を駆使してことばをつむぐしかない。
ラクなのは確かに読む側もすでに知っていたり体験したりしているであろう流行りの事柄について書くことだ。
けれど、ラクなのが必ずしもいいことではない。伝えることに困難はつきまとっても、流行りとは程遠い自身の見たもの、体験した世界の無意識とでもいえるような深層を描いてみることも有意義だろう。
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この記事へのコメント
會澤賢一
日本語で「肩を叩く」という動作を米国語に訳すときに「肩」「叩く」と訳しても通じないそうです。同様の行為は「背中に刺激を与える」というニュアンスで伝えるのだそうです。
もちろん動作を伝えるときの話で、その中に日本社会の文化が含まれているときに、とっさに意訳するのだそうです。同時通訳は本当の文化を知っていなければ出来ないんだなぁと痛感しました。
言葉は文化を示す。風習・文化がない国には、日本にある風習・文化を表す「言葉」も存在しません。共通認識と思っていることでさえももしかしたら相手の中ではニュアンスが違うものとして認識されているのかと思うのです。
コメント欄汚しのコメント失礼しました。
tanahashi
おもしろいお話ありがとうございます。