コミュニケーションの無目的性と身体性

仕事でユーザーの行動観察調査をしていて一番感じること。
それは日常行われるコミュニケーションというのは、僕らが普段思っているようには目的的でもなければ、言語的でもないということです。

内容を伝えたり、話を聞くという行為はもちろん行われている。でも、それは電子メールでやりとりしたり、電話で話をするといった言語の交換とはかなり異なるものであることが、固定観念を取り去ってよく観察してみればわかる。発話内容の交換といった目的だけで行われているのなら、たぶん、コミュニケーションなどしないであろうと思えるほど、その実態は無目的で非言語的な様相を示しています。

それは人間的ですらなく、ことばの使用というところを除けば、実はかなり動物的な行為であるような気がします。

コミュニケーションツールとしての布団

そんなことをごちょごちょツイッターにつぶやいていたら、@mokariさんからごもっともなつぶやきが。

@tanahashihiroki コミュニケーションツールとして認識されてるものってなんだろう・・・うちだと・・・布団???ツールじゃないですよね・・

このあと、そうですよね、布団はコミュニケーションツールですよね、まくら投げとかありますもんね、という掛け合いがあったのは、勝手にTLを追っていただくとして、コミュニケーションって実はことばなしでも成り立つということが案外忘れられている気がします。

布団という場において成り立つコミュニケーションなんていくらでも想像できますよね。ことばなしのコミュニケーションが。

そんな話はいいとして、ことばによる内容の伝達以前に、場そのものが共有されたり、身体的な触れ合いがあったりといったところの方に、むしろ、コミュニケーションの本質はあるのではないかと感じます。
そこにおまけとして発話や話を聞き取ることが付随しているのではないか。地面がつながっていたり、仕切られている空間を共有していたり、そういうことのほうが話の内容よりも大事なんではないかな、と。内容よりも、そうした場の設定が重要なんでは、と思うんですよ。まさにコミュニケーションを成り立たせる型として。

安易な説明を回避する

ずっと前に「アウトプットは毒素の排泄活動?」なんてエントリーを書いたりもしていますが、実は吐き出すという行為自体が大事であって、相手のリアクションが必要なのは自分がちゃんと吐き出せたことを確認したいがためというのが先ではないかとも思えます。

といっても、実は、観察調査でみるコミュニケーションらしき不可思議な行動をみていると、謎は深まるばかりで、いま書いたことですべて説明できるとは到底思えません。
そんな不可思議で説明困難なことを普段当たり前のようにしているのに、僕らはコミュニケーションを相手とのことばによる交換や伝達だと安易に信じ込みすぎています。ことばこそがコミュニケーションを成り立たせる核となる要素だと勝手な枠組みをつくって安心していたりする。

でも、現実はどうもそうじゃない。現実のコミュニケーションは普通に人が考えるほど目的的ではない。人間的ですらなく、ことばを使うことをのぞけば動物的だったりする。
そうした現実を見ることなく、頭で考え、論理的な整合性を追い、きれいなところばかり見ても仕方ないと思います。現実はもっと説明不能。その説明できないところを、ある視点を定めて新たな説明を生み出すことが大事でしょう。既存の説明体系の枠組に現実を無理にあてはめるのは現実に失礼。

僕らにできるのは、自分の頭のなかの固定観念、既存のイメージをただただ、これは違う、現実ではないと拒否し続けることだけです。その姿勢をとることでしか安易な説明というバーチュアルリアリティーからの出口を目指すことはできないはずです。

いずれにしても、コミュニケーションってバタイユ的な意味でエロティックだし、動物的だし、非-知的なんだと思うんですよね。

 

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