- 単独のモノの形をデザインする
- デザインされた複数の単独な形をコーディネイトする
もちろん、2.は、1.がその前提にあって可能になる。かといって、1.が単独で日常に存在することはほとんど考えにくく、ほぼ必ず2.の必要性が生じます。その意味で、1.と2.の関係は単純な主従関係ではないでしょう。
また、違う見方をすれば、1.はモノをデザインするデザイナーの領域、2.はデザインされたものを日常的に使用する僕ら生活者自身の領域だといえるでしょう。
ドナルド・A・ノーマンは、『エモーショナル・デザイン―微笑を誘うモノたちのために』
「製品のデザインは目標を誤っていることが多」く、「購入した既製品は、かなり満足に近いところまではいっているかもしれないにしても、ニーズにピッタリくることは少ない」が、それでも「幸いなことに、我々は別々の品物を自由に買って、自分にとってちょうどうまく機能するようにそれらを組み合わせることもできる」とノーマンは言います。これはまさに今の文脈でいうところのコーディネイトです。
我々は皆デザイナーだ。そうである必然性があるからだ。我々は自分の人生を生きていて、喜びも悲しみも、成功も失敗もある。人生を通して、自らを支えるために自分の世界を構築する。それぞれの機会、出会った人、訪れた場所、手に入れたモノは、特別な意味、特別な情動的感覚を引き起こす。これらは自分自身、自分の過去や未来への絆なのだ。何かから喜びが得られたとき、それが人生の一部となったとき、それとのインタラクションの仕方が社会や世界における自分の場所を決めるのに役立ったとき、それが好きになる。デザインはこの方程式の一部である。ドナルド・A・ノーマン『エモーショナル・デザイン―微笑を誘うモノたちのために』
「自らを支えるために自分の世界を構築する」、「自分の過去や未来への絆」をつくる、その形態形成の方程式の一部をデザインという。もちろん、そのデザインには、1.の意味での個別のモノのデザインと2.の意味でのコーディネイトの両方を含んでいるはずです。
“Less is more.”
ところが、どうも、このコーディネイトを回避しようとする傾向があるように感じます。今にはじまったことではありませんが、「シンプル」というキーワードの元に、できるだけモノの数を減らしたり、モノを見えないように隠したりして、コーディネイトの機会を減らす方向に向かう傾向があります。部屋はごちゃごちゃしているより、あまりモノを置かないすっきりした空間が好きだとかという感覚は、純粋にシンプルなものが好みであるのなら問題ありませんが(「純粋に好み」という状態がどういうものかはよくわかりませんが)、それがコーディネイトを苦手とする意識の裏返しだったり、デザインされた個々のモノが別の異質な表情をもったモノとのコーディネイトを拒むような懐の狭いスタイリングになっていることが多くてコーディネイトしにくくなっていることが原因だとしたら、それは本質的にはデザイン思想上の問題なのではないかと思います。
ご存知の通り、モダンデザインというのは、ミース・ファン・デル・ローエの“Less is more.” のことばに代表されるように、シンプルで、組み合わせの自由さや特定の文脈に依存しない自由さ、できるだけ安価で手に入りやすい材料を用いることで製造などのコスト面での自由さを追求する方向へのアプローチが1つの主流を成しました。その思想自体、僕はぜんぜん嫌いじゃない。ミースのデザインした建築や家具などは今見ても美しいと感じます。
また、家具を置かず、その季節ごとにそれに応じた飾り(雛飾り、注連飾りなど)で住空間を彩った日本の空間意匠もモノを置かないという意味ではシンプルさのベクトルをもっていたといえるでしょう。使わない時は仕舞うというのは、日本の住空間における作法の1つであったことは確かでしょう。
よく言われるような枯山水のような引き算のデザインというのも、シンプルの1つの形でしょう。それは意図的に何を残し、そこにない何を感じさせるかという意味で、高度な抽象化の作業です。単に多すぎるから減らすというのではない。
こうした積極的なシンプルさは美しいと僕も思う。
組み合わせによるシンプルとは別の方向性
ただし、物が多すぎるとごちゃごちゃしているからできるだけ隠したいという感覚は、シンプルとは違うはずです。むしろ、それは先に書いたような意味でコーディネイトを不得意と感じる意識の隠れ蓑になってしまっている。ミースの提唱したモダンデザインのユニバーサルスタイルはそこでは大きな誤解のもとに濫用されています。こんな本
日本の歴史的な流れをみてもそうです。日本は単に家具などの物がなくシンプルだったとばかりはいえないと思っています。
襖絵や屏風絵など、絵柄の描かれた襖や屏風などの家具を用いた日本の都市部の家屋や寺などの建築というのは、十分に装飾的なベクトルももっていたのであろうことは、先日観た「長谷川等伯展」でも感じました。花を飾る、書を飾るなどというのも、季節やハレの日を彩ることの延長上に捉えるべき事柄であり、襖を襖障子に取り替えたり、すだれに変えたりというのも住空間における衣替えです。
さらにいえば、歌舞伎の空間や日光東照宮といった空間はまさに過度な装飾の組み合わせによるコーディネイト的な表現でしょう。
個別の物のもつ存在感
こうしたコーディネイト的な組み合わせを人が避けるようになり、物をできるだけ減らす方向性に逃げるのが増えた要因として、僕は物のスタイルがミースやかつての禅的意匠のような力強さを兼ね備えたシンプルさから、ただ単に装飾的な要素を減らした質素な意匠に変わったことが要因としてあるのかなと思います。実際にやってみればわかることですが、ただ単に質素なだけの物を並べた場合、それこそよほど全体のテイストをあわせて物をうまく配置しないと、ただ単にぼんやりとした表情をもった全体がそれこそ物がごちゃごちゃした感じで存在することになります。それは部屋のインテリアではなく、服のコーディネイトでも同様で、ただ単に表情のない服同士を組み合わせると、ぼんやりとした印象にしかならない。もちろん、魅力にかけて、それならもっと物を減らそう、要素を減らそうという方にしか進みません。
でも、個々の物の意匠がそれ単体でもしっかりとした存在感をもつシンプルなデザインだったりすると、異質なテイストが混在していても、全体がぼんやりしないし、その中で個々の物同士がたがいに負けない存在感を発揮して、全体が引き締まって魅力的にもなる。実はむしろ、こちらのコーディネイトのほうが、質素な物をテイストをあわせてうまく見せるよりも楽だったりします。味のある古着やデッドストックの服などを現行品の個性ある服と組み合わせたほうが実はコーディネイトは楽なのと同じ。はたまた個性ある人同士の集まりのほうが、異なる分野なんだけど個性のない平均的な人が集まって何かをするよりも意外とうまくいくのとも似ています。
そう考えると、世の中がヘンに物を少なくみせようとする方向に走ったり、コーディネイトってむずかしいと思わせてしまっている要因の1つには、個々の物自体の意匠が存在感や力強さのようなものをうまく表現できなくなっていることもあるのかな、と感じます。それが、人びとがコーディネイトをする楽しさを感じられなくなってしまった1つの要因であり、ぼくは、わたしは、あんまりセンスがないからコーディネイトなんてできないと思わせてしまっているのかな、と。
それを勘違いして、コーディネイトが苦手な人が多いから、コーディネイトがしやすい個性のないシンプルなものをデザインしなきゃと思っているなら、大きな誤解のような気がするんですよね。
コーディネイトを可能にする個々の物がもつ力をこそ、デザインしようとする人が増えるといいなと思います。
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