没後400年 特別展 長谷川等伯

先週末の土日は、インタビュー調査の仕事をしていたので、今日の午前中は代休をいただいて、東京国立博物館平成館で開催されている「没後400年 特別展 長谷川等伯」に行ってきました。

展覧会公式サイトhttp://www.tohaku400th.jp

平日の午前中だから、そんなには混んでいないだろうと高をくくっていたのですが、甘かった。平成館の入り口にすでに長蛇の列。入場規制をしていました。待っていた時間は10分程度ですが、中に入れば、とうぜん、その人たちが見ているわけで最前列から見るのはほとんどあきらめました。
これから行く人は、すくなくとも会館前の9時半には並んだほうがいいかも。

松林図屏風

それにしても、はじめて実物をみた「松林図屏風」はすごかった!

「松林図屏風」にそう安々とはやられまい、と身構えて臨んんですけど、だめでした。見事にやられました。

「松林図屏風」は最後に展示してあって、そこまでたどり着くまでも他の絵にも十分うならされたあとでしたが、「松林図屏風」は別格でした。

やはり実物を実際のサイズで見てみないとわからないものです。
深い霧のなかで松が動いている。松という形が浮かびあがってきます。余白の取り方がただ者ではありません。余白が何もない空白ではなく、何かが詰まっている。しかも、それが自在に動く。
屏風の前をたくさんの人の頭が動いているのも、逆に自然な景色として映りました。そうですよね。屏風というのはただの絵ではなく、部屋のしつらえです。そこには常に人がその前を行き来することが想定されているはずです。

それは「松林図屏風」以外の屏風や襖絵でも同様でした。人が動くことが想定された絵です。

水分のつまった余白

今回あらためて等伯がさまざまなスタイルで描いた画家だということを知りましたが、やはりよいなと思ったのは、彩色画よりも水墨画でした。等伯は能登出身の画家ですが、あの水墨画の白黒の世界は、雪深い地域で育った眼によるものであるように感じました。

とにかく僕がいくつかの水墨画に対峙して何度もうならされたのは、余白の取り方です。屏風絵にしても、襖絵にしても、わりと余白が多いのですが、それが先に書いたように、ただの余白ではなく、何かがぎゅっとつまったような余白であることに驚かされます。それは深い霧やもやであったり、冷たい冬の空気のようにも感じられます。とにかくそこには水分を感じるんです。それが濃密な存在感で余白に存在している。

松岡正剛さんは『山水思想―「負」の想像力』書評)でこんな風に書いています。

中国の月はニッケルのように天に貼りついて煌々と照っていて、それをナイフでカリカリと削りたくなるような金属感があるが、日本の月は清少納言から村上華岳までが好んでその風情を表現したように、やはり「朧月」なのだ。とくに中国の山水画と日本の山水画を比較するには、この湿度感の相違が見逃せない。そこには「にじみ」の文化というものが待っていたわけなのだ。

まさに、この湿度が等伯の水墨画の余白にはありました。
牧谿を学ぶための秀作といわれる「竹鶴図屏風」にしても、湿度の深い朝靄のなかに竹林が浮かび上がって様を感じさせる余白もすごいと感じました。

本当はもっとゆっくり、じっくりと見たかったのですが、あの混雑では無理。
あとは個別の作品を、こうした特別展示の場以外であらためて見てみようか、と。



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この記事へのコメント

  • 名前を忘れた人

    松林図屏風、私も実物の前に立った時は圧倒されました!
    素晴らしい空間表現ですよね。ずっとその場で眺めていたい絵でした。
    何もないところに全てが表現されていて…「生きた絵」とはこういうものかと感動しっぱなしで(笑)
    本物はいつの時代も色褪せない美しさを持っていますね。

    一緒に観た友人とその後話したら「何がすごいのかよくわからなかった」と言われちょっとショックでしたが…
    2010年03月15日 17:52

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