古を知ることから新しさが生まれる

唐突にTwitterでのつぶやきから。

利休は花も変えてしまったと言います。それまで神=彼方に向けて立てた花を、こちらに向けて立てるようにした。茶室を壁で囲ったのも利休ですね。古を知るから出ることの出来た杭なんでしょうね。

茶の湯を大成したといわれる千利休ですが、実は華道においても革新的な人物であったようです。
利休以前、花というのは、今のように立てた花を人の側に向けるのではなく、あちら側に向けていたといいます。供花の意味合いが強かったのでしょう。
それを利休が180度反転させた。花がこちらを向いているように生けた。死者や神に向けて生けていた花を、生きている自分たちに向けた。竹を割って花入をつくったこと以上に、花の伝統からみれば文字通り大きな転回だったのではないかと思います。

それから、茶室の壁。
日本建築に壁ができたのは、それまで書院造の建物の一部を毛氈などで囲った仮説的な場をつくって行われていた茶の湯の空間を、千利休が壁で囲われた茶室に移し変えたことからはじまっていると内田繁さんは『茶室とインテリア―暮らしの空間デザイン』書評)で書いています。

古(いにしえ)を俎上に上げる

こんな前提となる知識があって、先のつぶやき。そして、そのすぐあとに続けて、こんなつぶやきもしています。

古=既成概念は意識化するからこそ、疑問で調理する俎上に上げられる。無意識という海を自由に泳がせていたのでは調理はできない。当たり前を疑うという革新への第一歩は古を知る=意識化することから。それが温故知新。

「故(ふる)きを温め新しきを知れば、以て師為(な)るべし」。それが『論語』にいう温故知新。「温め」というのは、熟知し、理解し、心得ていることを指す。

前置きが長くなりましたが、古を知る=意識化するというのは、実は今を知る=意識化することにほかならないというのが、僕の基本姿勢です。意識化するというのは、疑問をもつことができる状態をつくるという意味。無意識に当たり前にやっている状態から、意識で捕まえた状態をつくることで俎板の上で調理できる状態をつくること。つまり、現状把握。この現状把握の「現状」のスコープを広げて古(いにしえ)をいれることで、調理できるバリエーションが増えてくる。

今日は、そんなことをすこし書いてみようかと。

形態の革新は現状把握から

僕が解説を書かせていただいた『フォークの歯はなぜ四本になったか 実用品の進化論』書評)でも数多くの事例が挙げられているように、モノの形の進化は現状の欠陥に気づくことからはじまります。

食器類のような一見単純そうなモノについて、その形がいかに進化してきたかを想像してみるとはっきりわかるのは、人工物が今あるような形になった経緯を理解するための支配的原理として、「形は機能にしたがう」説は不適切だということである。(中略)
本当の意味でモノの形を決めるのは、ある働きを期待して使ったときに感知される現実の欠陥にほかならない。

「形は機能にしたがう」が不適切なのは、形を要求するはずの機能そのものがそれ以前の形態の歴史に大きく依存するからです。食べるための機能をもった道具も、西洋のフォークやナイフと東洋の箸といった具合に、形が大きく異なるのはそれぞれの文化が歩んできた歴史の違いでしょう。ペトロスキーの本のサブタイトル(実は原題でもありますが)に「実用品の進化論」とあるように、それは生物の進化同様に、進化前の種の形態(必ずしも物理的形態ではありませんが)を引き継ぐ形での進化であることが多い。

すでに存在する1つの形に対する使用上や倫理面・経済面など、さまざまな欠陥が改善要求を出すことで、新しい形の模索がはじまる。であれば、現在の利用状況における欠陥を発見するための現状把握が新しい形態を生み出すためには必須となる。これはあらためて言うまでもないことですが、いちお整理のため記述。

古を含めた大きなスパンでの現状把握

というわけで、話を戻すと、繰り返しますが、古を知るというのは大きなスパンでの現状把握ではないかと思います。現状というのを、まさに今だけと小さく捉えるか、自分が生きてきた時間全体を視野に入れるか、はたまた、もっと大きなスパンで、あるモノが人類に使われてきた歴史全体を視野に含めるのか?

例えば、こんな話もある。

ある企業がやってきて、「新しいトースターをデザインしてもらいたい」と言ったとします。私は「パンがどうカリカリになっていくかを研究しましょう」と答えるでしょう。相手は「いや、トースターのデザインをお願いしているんです。さあ、始めて下さい」とくる。トースターが何であり得るかという彼らの想像の世界は、狭いのです。しかしわれわれは、「われわれの仕事は、パンの歴史を見ることから始まるんです」と返事をする。
デヴィッド・ケリー「第8章 デザイナーのスタンス」
テリー・ウィノグラード『ソフトウェアの達人たち―認知科学からのアプローチ』

現状把握のスパンを大きくとることで、ただ直近のみを知るよりも、現状において、あるモノやある状態を成り立たせている隠れた論理という共通パターンを見つけやすくなるはずです。現状把握の対象のサンプルを時間的な変化も含めたものにまで量的に広げることで、より根源的な(つまり、あらためて意識してはじめて気づく普段は当たり前になってしまっている)無意識的な論理の形態を見出すことが可能になるでしょう。

そのなかで、どの論理に改編を行えば、何がどう変わるのかの仮説が立てられるようになる。利休が花をこちらに向けたり、花入れを竹で作ったり、茶室を壁で囲ってしまったの、大きなスパンで、花の現状、建築の現状というものを捉え、その上でどこが「当たり前」と無意識のうちに受け継がれていて、それを変えることでどうなるかと想像できたからこそできた、大きな飛躍・転回だったのではないでしょうか。

温故知新というのは、そういうことではないかと思うのです。視野を広く持ち、将来を切り開くための疑問をつくれる状況を自ら生じさせる。

発見=discover、覆いをはがす

昨日、読み始めた『形の冒険―生命の形態と意識の進化を探る』という本に、こんな一節がありました。

この無意識の裡につみ重ねられていく人間独自のプロセスの本質を、私は発見と呼びたい。ここには、自然の発見と人間のもつ生まれながらの潜在能力の発見という、外と内に向けられた同時的かつ相互的な2つの活動が含まれる。創造も想像も発明も、すべて新しいものを発見(ディスカバー、覆いをはがす)する営みの一側面である。

「無意識の裡につみ重ねられていく人間独自のプロセス」を働かせるためには、プロセスの対象となるサンプルを増やすことが望ましいでしょう。それが無意識の覆いをはがし、当たり前の下に隠されたものを発見する機会を確率的に向上させるはずです。創造や想像や発明につながる発見の機会を増やすには、そうした「つみ重ね」をいかに意識的に増やすかということにかかっているところも大きいのではないかと思います。

もちろん、古を知ることだけがその機会を増やす唯一の方法ではありませんが、僕自身はわりとその方法が気に入っています。

   

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