強引に簡略化してしまえば、個別の事物の背後に潜む本質であるイデア。
プラトンの哲学に端をなすイデアは、17世紀の初頭のマニエリスムの時代において、芸術家の精神のなかに形成された内的素描として、実際の作品の原型と捉えられるようになる。芸術家は自身の精神のなかであらかじめ形成された内的素描としてのイデアを自身の技術を用いて絵画や彫刻などの外的素描へと移し変える。
このような理論化を最初に行ったのが、マニエリスムの画家であり芸術理論家でもあったフェデリコ・ツッカーリであり、それは1607年の『絵画、彫刻、建築のイデア』という書物のうちにおいてなされたものであることは、すでに「ディゼーニョ・インテルノ(デザインの誕生1)」で述べておいた。
ところが、本書の著者、パノフスキーによれば、そもそもイデアという哲学的概念を生み出したプラトンは決して「造形芸術に対する公正な審判者ではありえなかった」という。「プラトン哲学はやはり、芸術に敵対するとは言わないまでも、芸術に疎遠なものと呼ばれるのにふさわしいものであった」といいます。
その芸術に疎遠なはずのプラトン哲学のイデアがなぜ、マニエリスム期に至っては、芸術活動の根幹をなすものの地位を獲得するに至ったか?
古代から中世を介してルネサンス、マニエリスム、バロックの時代へと、イデアの歴史的変遷を辿ってみせるのが、このパノフスキーの『イデア―美と芸術の理論のために』
それは同時に、芸術の社会的地位や役割の変化を観察する試みにもなっています。
芸術を攻撃するプラトン、芸術から身を守ろうとするプロティノス
まず、個別の事物の背後に潜む本質であるイデアをこそ重視するプラトン哲学において、単純に外界の個物を模倣する術としての造形芸術が大きな価値をもつものと見做されなかったのは、当然だといえます。見かけをつくる模倣の術としての造形芸術は、人間の不完全な目を惑わせるものとして攻撃の対象でさえありました。個別より一般化を目指す傾向の強いその哲学においては、個別を超えた、普遍的なイデアとの合致を目指す限りにおいて芸術的創造の価値は認められたのです。特にこうしたイデア的な意味での芸術的な美を見出す能力を芸術家のなかに見出す思想は、プラトンより500年以上後の人で、ネオプラトニズムの創始者といわれるプロティノスの思想のなかに見出せるといいます。
同じ古代においても、この500年の時間差のなかで、すでにプラトンとプロティノスの思想には差異が見られます。
プラトンにとって、芸術とは人間の内的な眼差しを感覚的な像に引きとどめ、イデア界を観照することを妨げるものであって、それゆえにこそ彼は芸術を断罪したのであった。他方プロティノスにとって、芸術派人間の内的な眼差しをいつも新たに感覚的な像のうえへとさまよいださせ、イデア界へと視野を開きながらも、同時にそれを覆い隠してしまうという悲劇的な運命をもつものであり、それゆえに彼は芸術に有罪を宣告するのである。エルヴィン・パノフスキー『イデア―美と芸術の理論のために』
ここでプラトンとプロティノスのあいだで、芸術に対する態度に違いはみられますが、いずれにせよ感覚的に知覚できる世界を超えたイデア界を優位におき、それゆえに感覚的技術としての芸術の価値があまり認められないという点では、古代の芸術観はそれほど大きく変化していないと見做すことも可能でしょう。
中世における準イデア、独立性を認められない芸術
ところが、キリスト教社会となった中世においては、芸術の社会における地位に変化が訪れるとともに、イデアの位置づけにも変化が起こります。まず、以前、フランセス・A・イエイツの『記憶術』
こうした中、新プラトン主義の非人格的な世界精神を、キリスト教的な人格神へと置き換えたのがアウグスティヌスであり、そのなかでイデアもまた世界精神に内在した本質としての地位から、人格神に備わり思惟へと変換されたのです。
そうしたなか、イデアと芸術との関係にも読み替えが起こります。イデアが人格神の思惟となり、芸術が神の世界を描き出す役割を担うものとなったとき、芸術家は、本来神の思惟であるイデアを神秘的な直視により捉える能力をもったものと見做され、その芸術家の直視したイデアを神のイデアの模倣としての準イデア的なものと考えるようになったのです。
神のうちで生みだされ抱かれたこの像が、それでもなお、一般に人間と関係をもつことが考えられるとすれば、それはたいていの場合、論理的認識の対象や像家低的な模倣の対象としてではなく、むしろ神秘的直視の対象であった。とはえいもちろん、芸術家の精神がその内的表象と外的作品に対してもつ関係は、神の知性がその内的イデアと彼によって想像された世界に対してもつ関係と平行していると考えられた。エルヴィン・パノフスキー『イデア―美と芸術の理論のために』
中世においては、このような神と人との関係性においてのみ、芸術家とその作品の社会的役割、地位が約束されたのであり、古代のように断罪されることは免れるようになったとはいえ、いまだ芸術そのものの独立性はまだ認められていなかったのです。
芸術の独立、独立を正当化するために援用されたイデア
ところが、宗教改革が過熱するルネサンス期になると、キリスト教に守られる形で存在意義を保っていた芸術に危機が訪れます。それは「主観と客観の裂け目の発見(デザインの誕生3)」で書いたとおり、主体の独立を促すような危機でもあったのです。
かつての問いは、人間はどのようにして芸術作品を造るのか、というものであった。これに対して、いまやそれとはまったく別の、中世にはまるで縁のなかった問いが立てられる。すなわち、自然に立ち向かうことが必要になったとき、それを上手にやり遂げるためには、人間には何ができなくてはならないのか。とりわけ、何を知らなくてはならないのか。エルヴィン・パノフスキー『イデア―美と芸術の理論のために』
中世のキリスト教的理想を描いた絵画から放り出され、再び、自然に向き合い、観察することで自らの描く世界を見出さなくてはならなくなったルネサンス期の芸術家にとって、主体である自分自身がいかにして客体である「自然に立ち向かう」べきか、それには何を知る必要があるかという問いに答えなくてはならなくなりました。その答えがパノフスキーの別の本、『象徴形式としての遠近法』
ところが、遠近法によって主観と客観の立場が確立されると、今度は別の難題が生じます。そこで芸術における課題はルネサンスの後を継ぐマニエリスムにおいて大きく変転します。
芸術論の目標は、かつては芸術的創造を実践的に根拠づけることにあった。ところがいまや、芸術論は芸術的創造を理論的に正当化しなくてはならない。芸術家が自らの内的表象に、正確さという点でも美しさという点でも、主観を越えた妥当性を要求したとき、そうした要求を正当化してくれるはずのものとして、芸術理論はいわば形而上学に助けを求めるのである。(中略)この時代は避けがたい必然性によって、ほかのどんな方法によっても解くことのできない問題が自らの前に立ちはだかっているのを目の当たりにしたのである。エルヴィン・パノフスキー『イデア―美と芸術の理論のために』
ルネサンス芸術が、遠近法という自然と向き合う術の考案とそれによる主観と客観の関係性の確立とともに、中世までのキリスト教に従属した芸術という立場から、芸術を独立的な存在に変えたことで、芸術には宗教に頼らず、自らの正当性を立証しなくてはならないという課題が生じたのです。
それが明確に意識されたのがマニエリスム期であり、その課題の1つが最初にあげたツッカーリの『絵画、彫刻、建築のイデア』であり、プラトンのイデアを大きく歪曲することで芸術に本質的な存在の正当性を主張する理論的根拠を生み出したのです。
社会と人間精神の変化の具体的把握とそのダイナミズムの理解
ざっと流れを要約してしまいましたが、このイデアと芸術の社会的役割、そして、何より人間精神の変容には驚かされるものがあります。よく「時代は変わる」などという一般論を能天気に語る人がいますが、問題は変化するのが当たり前ということの認識というより、どんな因果関係によって何がどのように変化するのか/したのかという具体的な変化の軌跡とその背景を理解することではないかと思います。そこには偶然であれ必然であれ変化を促し、多くの場合、後戻りできない変容を社会にも、人間精神にも植えつける複雑な力学が隠れています。その力学をそれこそ一般論して変化を本質的なものとだけ言うのではなく、個別の事象を丁寧に読み解きながら変化の具体的な内容を理解することこそが求められるはずです。
そうした具体的な事象としての古を知ることなく、現在のダイナミックな動きを有意な形で捉え、その変化の力学に影響のある形で参与していくことなどできないはずですから。
そのような意味で、本書とそれに続けて読んだパノフスキーの『象徴形式としての遠近法』
P.S.
この手の本の多くが5千円以上するのが当たり前というなかで、本書も含め、文庫版も数多く出版されているパノフスキーの本は、お得だと思います。このあたりの話に飛び込んでみようという方には手に取りやすい作者の1人ではないでしょうか。
関連エントリー
- ディゼーニョ・インテルノ(デザインの誕生1)
- 主観と客観の裂け目の発見(デザインの誕生3)
- 記憶術/フランセス・A・イエイツ
- ルネサンス様式の四段階―1400年~1700年における文学・美術の変貌/ワイリー・サイファー
- 円環の破壊―17世紀英詩と「新科学」/M.H. ニコルソン
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