創造的な過程としての読書

意識というのは結局のところ、行動の残滓のようなものではないかと思う。

ずっと前に紹介した脳神経科学者ジェラルド・M・エーデルマンの『脳は空より広いか―「私」という現象を考える』書評)には、こんな図を紹介した上で、

ダイナミック・コア


次のようなことが述べられます。

Cは、高次元の識別を反映し、ゆえにその高次元の識別をもたらすC'の存在なくしてCが生じることはない。Cは対応関係を反映するものであって、直接的にも場の属性を通しても、物理的に何かを引き起こすことはできない。しかし、C'は違う。C'の活動は次のC'の活動を因果的に引き起こす。そのC'に必然的に伴う、伴立するのがCというわけだ。

ここでエーデルマンが言っているのは、意識プロセスとしてのCは、あくまで外界の信号を受け取り、それに対して行動を起こし、さらにそのフィードバックを外界から受けるといった一連の因果関係をもった活動のプロセスであるC'を「現象変換」させたものにすぎないということです。

なぜ意識が物理的な肉体を動かすのか?という従来からの志向性の問題を、エーデルマンは逆転させる形で、意識プロセスを物理的・神経的プロセスの投影として、残滓として捉えている。僕はこの考え方にとても納得するところがあるので、自分でもこの考え方を仮説として採用しています。

創造的な過程としての読書

こんな仮説のうえで考えると、結局は思考というのは行動のあとについてくるものではないかと思うのです。

今日もTwitterでこんなつぶやきをしてみました。

  • 意識に上った考えなんて、所詮は普段の行動の残滓だろう。普段いろんなむずかしい課題にチャレンジしてるからこそ、言葉が生まれ、他人の言葉にも反応できる。難題から逃げてばかりでは言葉さえ生まれないし、他人の言葉も受け取れない。
  • 何かやってる時のほうが考えなきゃいけないことが多いから、やってる人の方がつぶやくことが多いというのは、僕も自然な気がします。

さらに昨日は昨日で、こんなこともつぶやいています。

  • 本に書かれた知識を追うのではなく、本を書いた人がなぜそれを知ったか、考えたのかという人生を読め。でなければ、確かに読書は大しておもしろいものではない。

結局のところ、言葉を発したり理解したりしようとすれば、先行する行動がともなわければ、ただの言葉遊び的になってしまい、展開力がともないません。また、同じように自分の過去の行動経験がなければ、なかなか他人の言葉を引き受けることもできない。

それは本を読む場合でもおなじで、自分の経験のアーカイブがある程度なければ、他者が自己の人生を引き受けながら書いた言葉を、人生に裏打ちされた言葉として受け止めることも、それを自分の人生に引き受けて解釈することもできないのではないか?

それをしないからこそ、読者は単なる情報の取得、知識の取得というつまらないものと見做されてしまう。

町を捨て、書へ出よう

だが、本来の読者はそうではなく、著者の人生を経た残滓としての思考の記録を、自分自身の行動に裏打ちされた解釈によって読み、さらにそこで得たものを、他の本に書かれたことや自分自身の経験から得られた知見と編集的に組み合わせることで、新しい何かを生みだす創造的な過程だろう。

そうした読者体験を忘れて「書を捨て、町へ出よう」などと言っても仕方ない。
そのことを忘れた世界であるなら、町に出たところで自分の人生に関係するような出来事は何も起きえず、ただただ予定調和の情報交換がわかりやすさというルールの元で繰り返し行われるだけだろう。

それなら僕はあえて言いたい。「町を捨て、書へ出よう」と。



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