未知のものにどう接するか?

最近、バーバラ・スタフォードの『実体への旅―1760年-1840年における美術、科学、自然と絵入り旅行記』を読みはじめた。

旅(特に観光旅行、物見遊山)というものが、民衆もするものとなった歴史的経緯について考えてみたいと思ったからだ。
未知のものや場所に対して赴く人間の姿勢を考えるうえで、知らない土地を人びとが訪れる際の行動についてあらためて考えてみたくなったからである。

旅!エクスペリエンス!!

高山宏さんは『近代文化史入門 超英文学講義 』書評)のなかで、こんなことを書いています。

18世紀半ば、イギリスでは「エクスペリエンス」という言葉がキーワードになる。

18世紀前半のイギリスが長く続いた戦争の時代を一段落させ、道路と運河のネットワーク拡張期に当たったからだと、高山さんはいいます。この道路や運河の整備により、人びとはいろんな場所を旅して歩くようになった。
旅が可能になると、それまで身近ではできなかった経験がいろいろとできるようになる。

1719年にデフォーが『ロビンソン・クルーソーの生涯と奇しくも驚くべき冒険(いわゆるロビンソン・クルーソー漂流記)』を書き、1726年にスウィフトが『船医から始まり後に複数の船の船長となったレミュエル・ガリヴァーによる、世界の諸僻地への旅行記四篇(いわゆるガリヴァー旅行記)』を書いたのが、その時代だ。
世界ではじめてのアルファベット順の索引をもつ百科事典『サイクロペディア』をイーフリアム・チェンバーズが書いたのは1728年である。

『ロビンソン・クルーソー』が魚の釣り方、その釣り針の作り方、穴の掘り方、屋根の作り方というきわめて実践的な知識を扱ったのと同様に、『サイクロペディア』という百科事典もまた、学者の知を集めたものではなく実践の知を集めている。つまりキーワードとなるのが経験である。

旅に先行する旅行ガイドブック

ほぼ同じ時代、日本では、1780年に秋里籬島が『都名所図会』を出版している。これは京都の名所ガイドブックで、この籬島のガイドブックは当たり、次々といろんな土地の旅行ガイドブックを籬島は続けて出版している。

そして、1802-22年には有名な十返舎一九の『東海道中膝栗毛』。弥次喜多のガイドブックを持たない旅の珍道中は、すでに19世紀初頭には笑いのタネになっている。

このあたりは以前に紹介した、タイモン・スクリーチの『定信お見通し―寛政視覚改革の治世学』に詳しいが、英国で旅の経験が注目されたと同じ時期に、日本では旅を先取りする旅行のガイドブックという疑似体験に注目が集まっている。
もちろん、これは一般人による旅というものを両方の面からみた結果だろう。つまりは英国が重視した経験を得る旅をするためには、結局、『ロビンソン・クルーソー漂流記』や『ガリヴァー旅行記』が、『東海道中膝栗毛』と同じ役割を果たしたのだ。とうぜん、一方には籬島の『名所図会』にあたるガイドブックがあったはずである。

つまりは実際の経験には、常に疑似体験(ガイドブックやマニュアルの参照)が先行していたのである。

これはいまの僕たちの観光旅行のスタイルとなんら変わりはない。
変化といっても、モバイルインターネットが普及したおかげで、それが旅行に出かけるずっと前から、直前に変化した程度だろう。

旅を基点に、あれこれと思考はさまよう

昨日あたり、Twitterでだらだらと流した、次のようなつぶやきは、このような話と関係している。

  • 情報と体験の境がなくなる疑似体験のはじまり。
  • 知っているということと、実際にやって感じたことの区別がつかない身体。驚きや喜びもあらかじめ疑似体験しておかなければ感じられない愚鈍な身体。予習やマニュアルなしでは何も見えないし聞こえない。予定調和のなかにしか驚きも喜びもないという矛盾の支配。
  • 未知の場所に旅する際、旅行ガイドに頼るようになったのが18世紀末。行きあたりばったりで未知の場所に赴くのではなくマニュアルによる事前の予習が当たり前になる。未知と対する時、事前にマニュアル的知識による疑似体験があって、そのあとに実際の未知に対するのだからすでに相手は未知ではない。
  • さて未知の商品を使う際、マニュアルを見なくても使えるようにということがユーザビリティの話でよく出てくる。つまりそれは未知の商品を既知のもののように扱えるようにすることだろう。商品の側も使う人の側も極力既知の領域からはみでないようにする。それは何が新しいのか?
  • と書くと、人は新しい使い方をしたいのではなく、新しい機能や結果がほしいのだという声が聞こえてきそうだが、本当だろうか?では、なぜヒットするのが、iPhoneやWiiやDSなのか?
  • 未知はこわい。でも楽しい、といえないだろうか? 過度なマニュアル文化はリスクとともに人から楽しみを奪っていないか?
  • 未知の物事に対して、情報収集から入るのではなく体験から入る。さらにいえば、まだ情報が出揃わないような未踏の地こそを目指す。誰かが体験した内容を綴ったニュースばかり読んでても仕方がないヨ。

といったあたりの思いつきの仮説を、もうすこしきちんと考えるために、バーバラ・スタフォードの『実体への旅―1760年-1840年における美術、科学、自然と絵入り旅行記』を読み進めているというわけです。

疑似体験を超えた実体への旅ははたして可能か?
可能であるとしたら、いったい、どのようにして?
ということが、18世紀中盤から19世紀初頭にかけてどのように考えられてきたか。
それが現在にどのように影響を与えたかです。

 
 

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