お利口であるのをやめよう

既存の尺度で評価できるものはすでにわかっているものだ。当たり前だと評価なものは、そもそも何を当たり前だと思うかの基準かあるから、その基準に当てはまるかどうかが判断できる。
ところが、その当たり前の基準は必ず過去の先例に基づいて形成される。つまり未来において当たり前になりうるものかは判断できない。いや、大抵の場合は当たり前ではないとして弾かれる。

ここにイノベーションの芽を摘む1つの要因がある。

当たり前を疑え

新しい何かを見つけたいなら、未来は現在までの基準では判断しえないことをあらためて理解したほうがよい。
いや、自分で新しい何かを見つけるつもりはなくても、新しい何かが生まれてくる芽をむやみに摘んでしまいたくないなら、自分のいまの基準で「それはだめだ」といわないようにすることが必要だ。特にそれが見たことも聞いたこともないようなよくわからない対象なら、たとえ自分がそれどうなの?と疑問に感じても安易に否定しないようにすることが、この不況を脱するためのイノベーションが必要とされる時期にはとても大切なことだと思う。

よくわからない何かを安易に否定するよりも自分が判断の基準としている自分の当たり前を疑う姿勢を忘れてはならない。
このソーシャルメディアが発達し、どんな個人さえ意欲さえあれば小さなつぶやきを発することができる時代だからこそ、それがどんなにバカげたものでも未来を切り開く可能性をもっているならその芽を摘むことにつながるやもしれない発言は控えるのが最低限のリテラシーではないかと思う。

お利口すぎない

それは他人に対してだけではない。自分自身に対しても同じことがいえるはず。馬鹿げているからといって自分の新しい思いつきを簡単に捨てるのはもったいない。つまらない思いつきだからと邪険にしてしまってもいけない。

繰り返すが未来のことを判断する基準は現在までの経験にはない。
それなら下手にお利口ぶって手持ちの基準に照らし合わせて馬鹿げているだの、つまらないだの判断すること自体、まったく理にかなっていない。そんな理にかなわないお利口ぶった姿勢で自分で新しい何かをあきらめたり、自信がもてず人に話さずにおいたりするよりも、もっと馬鹿になってイチかバチか先に進めてみて検証すればいい。

プロトタイプだと思えばいいのだ。未来のプロトタイプを、過去の出来合いのプロダクトとおなじ基準で評価しようというほうが本当はどんなに馬鹿げたことか。
中途半端にお利口にならず、もっと馬鹿になることが必要だ。

未来のための仮説

とにかくお利口に過去のあさはかな知識だけでつまらぬ判断をしてしまうことが多すぎる。それがいまこそイノベーションが必要な時代に多くのイノベーションの芽を摘んでしまっている。

今ないものを既存の事実の観察に基づくありえない編集から新しい仮説を発想するという行動がとにかく不足している。目の前の現実をただ見ているだけでは新しい仮説は生まれない。それは過去の経験から生まれた判断基準、いままでの当たり前で見ているのだから、新しい仮説なんて見えるはずがない。
そうではなく、いまある現実を観察した結果、いままでではありえない組み合わせで考えたり、ありえない説明の仕方を編集的にうみださなければ未来を切り開く仮説など生まれない。また、その時点でそれが正しいかどうかの判断をしようとするのも馬鹿げている。その時点では判断を可能にするデータの量も足りなければ、判断をする基準もできていないのだから。それを過去の判断基準で無理やり評価したり、評価できないからだめだというのに何の意味がある? 本当にお利口ならそのあたりをもっとちゃんと考えたほうがいい。

まあ僕はそんな中途半端にお利口になるくらいなら、馬鹿になることをおすすめします。
その馬鹿な発想だけが次の評価基準、つまりは新しい価値をつくれるのだから。



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