民衆化とはなんだったのか?(デザインの誕生7)

だいぶ間があいてしまいましたが、「デザインの誕生」シリーズを続けます。
前回の「下剋上と文化の平民化」では、西洋でのルネサンスとほぼ同時期に、雪舟がボッティチェルリやダ・ヴィンチの同時代人として、山水画の日本化を果たした時代性に着目し、その時代が既存の社会システムを下から突き崩した時代であり、文化や経済が民衆化した時代でもあったことの確認をはじめました。

そのあと、この時代についてもうすこし詳しく理解しておかなくてはと思い、桜井英治さんの『室町人の精神』を読んだのですが、その時代の下克上という変化は僕が想像していた以上に劇的で、まさにルネサンスが西洋世界を近代に向けて一変させたのと同様、日本社会をこれまた近代の土台をつくる方向に大きく変化させた時代であったことがわかり、僕は唖然としています。

この唖然とした事柄をはやく紹介しようと思いつつ、すでに10日以上の時間が過ぎてしまったことは、自分の行動力の愚鈍さを嘆きたくなりますが、気を取り直してリスタート。

もののもどり

では、下克上によって覆された時代とはどうだったかというと、それを考えるには、桜井さんが紹介してくれている、1482年に8代将軍・足利義政が東山に山荘(つまり、いまの銀閣寺)を造営しはじめた際のエピソードが参考になります。

義政はその山荘を3代将軍・義満の北山亭(金閣寺)に倣って、東山亭と命名します。その1ヵ月後、義政は突如出家をはかり、それを当時の天皇である後土御門天皇が慰留するというできごとがおきました。
これが実は1395年に義満が出家をはかったのを後小松天皇が慰留するという出来事の焼き直しだったというのです。義政も後土御門天皇も、義満、後小松天皇という先例を台本にして、そうした行動をしたというのです。

この茶番劇じみた室町将軍と天皇の立ち振る舞いを、桜井さんはこう説明してくれます。

つまり、その演劇は世間の人びとに観劇させるためのものであり、同時に彼ら自身が味わうためのものでもあった。その演劇を通じて彼らは彼らのいる世界の不変性を確かめあい、寿ぎあったのである。この台本は社会のあらゆるところに用意されていて、人びとの意識と行動を強く規定していた。次々と同一劇の再演がくりかえされる世界、それが中世であった。

先例を再演すること自体が、中世・室町の政りごとや祀りごとを動かす原動力だったということです。政りや祀りだけではありません。社会における経済生活、文化生活もすべてこの中世までの「もののもどり」の思想に裏打ちされた中世人の行き方そのものだったということです。

桜井さんは「死者が現在を生き、生者が過去をさまよう夢幻能の世界を―その濃縮され、三次元化された時空を―、彼らは現実の世界として生きたのである」とも書き、その精神をまさにその時代の世阿弥の能につなげ、徳政一揆という義政以前の時代には将軍が死ぬたびに行われていた一揆―借金未済の質物やいったん売却した土地をただで取り戻そうとした行動=徳政―との関連も見出します。

それは折口信夫さんが描いた古代以来の「祝詞」の世界観と地続きのものにほかならないでしょう。

みこともちをする人が、その言葉を唱えると、最初にみことを発した神と同格になる、ということを前に云ったが、さらにまた、その詞を唱えると、時間において、最初それが唱えられた時とおなじ「時」となり、空間において、最初それが唱えられた処とおなじ「場処」となるのである。つまり、祝詞の神が祝詞を宣べたのは、特にある時・ある場処のために、宣べたものと見られているが、それと別の時・別の場処にてすらも、一たびその祝詞を唱えれば、そこがまたただちに、祝詞の発せられた時および場処と、おなじ時・処となるとするのである。
折口信夫「神道に現れた民族論理」『古代研究―2.祝詞の発生』

祝詞を唱えれば、原初にそれが「おなじ時・処となる」という古代のアニミズム的思考がそのまま、中世人の「もののもどり」の思想の源泉となっていたのです。

経済も文化も神のもの

高橋睦郎さんの『遊ぶ日本―神あそぶゆえ人あそぶ』書評)ではありませんが、中世までは経済も文化も神のものでした。
網野善彦さんが『日本の歴史をよみなおす』書評)で、

モノとモノとを商品として交換するということは、ある時期までの社会では、普通の状態では実現できなかったことだと思うのです。モノとモノとを交換する、人と人とのあいだでモノが交換されることは、いわゆる贈与互酬の関係になります。そのように贈りものをし、相手からお返しをもらうという行為がおこなわれれば、人と人との関係は、より緊密に結びついていかざるを得ないことになってきます。これでは商品の交換にはなりません。

と書き、中世まではモノやカネをいったん神の所属にすることで交換を可能にしたことを紹介してくれています。それゆえ、市場は神社や寺など、網野さんがいう無縁の場で行われていたのです。

経済から神威が消えた

そうした中世人の思考に大きな変化が訪れたのが、義政の時代、応仁の乱の時代です。

例えば、桜井さんはこんな風に書いています。

一口にいえば、武力から財力へ、政治力から経済力へということになろうが、こうした経営戦略は、じつは幕府がすでに歩みはじめていた道であった。ただ、それが一種の諦念をともないつつも明確に自覚化されたところにこの時期の新たな局面があったのだろう。しかもそれはたんなる戦略の転換というだけでなく、幕府により重大な決断を迫るものでもあった。政府であることをやめよ、一企業として生きよ、それがこの戦略の含意するところなのである。

武力や政治力で治めていた幕府は、応仁の乱を機に、一気に力を失い、時代は戦国の世になります。同時に、それは幕府が日本を統一していた政治的な権威の位置から、京・大和周辺の経済を牛耳る一企業に過ぎなくなったことを意味します。

桜井さんは義政時代に、中世までは人びとの思考や行動に大きな影響を与えていた神威が失墜し、「人びとが以前ほどには神というものに畏怖の念をいだかなくなったという大きな意識変化があった」といいます。
それは中世までの経済を支えていた、「神人や供御人とよばれた中世の特権商人の多くはこのような微税権者に身を落とすか、さもなくば輸送業者に転向するかの変質をたどりながら、やがて日本史上から姿を消したのである」という経済構造の変化にもつながりました。それは神の手を離れ、民衆化し、その後、武野紹鴎や千利休を生み出す堺の町の興隆にもつながるのです。

大衆化の先に

神威が失墜するとともに、祝詞的な循環する時間はまっすぐに後戻りすることなく進む直線的な時間に変わりました。「もののもどり」や先例を重視したミメーシス=模倣的な方法は、下克上的な先例を次々に乗り越えて新しい秩序を生み出そうとするデザイン的な方法にとって変わります。

そうした時代、宗教の世界でも民衆化が起こる。蓮如による「宗教の還俗」運動がそれです。
蓮如は御文(おふみ)と呼ばれるきわめて明快なテキストを布教手段として用い、「一心に弥陀の救いを神事、たのむ気持ちがおこれば、その時点で救われる」とし、そうした教えをかな交じりの平易な文章で誰でもわかるように説き明かした御文で、誤読や誤解を生じないようにし、大衆化を図ったのです。

ところが、蓮如が誤読や誤解を生じないように明快に平易な御文をつくったにも関わらず、その結果、生まれたのは大衆化戦略によって数が膨大に増えた門徒たちによる誤読や誤解でした。そうした誤読・誤解が1474年に加賀の一向一揆を起こさせ、化け物のような戦闘集団を生み出したのです。

僕が唖然としたのは、まさにここ。
大衆化が化け物戦闘集団を作ったという。

もちろん、大衆化に向かい、先行する権威やシステムをことごとく下克上=デザインで打ち破っていこうとする直線的な歴史は、戦国の世を生んだわけですし、はるか後に民主主義と資本主義が合体した化け物消費世界を生んだわけです。神のもとにあった経済や文化は民衆化し、たがが外れたように荒れ狂った。その流れを日本はいったん江戸期に停止させるシステムを生み出し、循環の世を再構築したものの、そこにもシステム上の欠陥やら、マニエリスム以降、たががはずれっぱなしの西洋の近代化の流れに押しやられて挫折する。

雪舟が描いたのは、そうした流れの端緒になった時代の日本の風景でした。それまで中国の風景を模倣していた日本の水墨画はそれを機に、日本の風景を描いた水墨になり、雪舟5世を自称した長谷川等伯を生む。時代は利休や織部の時代、桃山の時代に入っていました。

というわけで、桜井英治さんの『室町人の精神』はとても刺激的なので、ぜひご一読を。

シリーズ「デザインの誕生」
  1. ディゼーニョ・インテルノ
  2. ルネサンスの背景
  3. 主観と客観の裂け目の発見
  4. サブジェクトからプロジェクトへ
  5. コトをモノにした時代
  6. 下剋上と文化の平民化
  7. 民衆化とはなんだったのか?


   

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