何があったかは詳しくは書きませんが(PS.誤解が多いようなので補足すると仕事関係の話ではありません。むしろ仕事以外の場でどうか?という話であることを追記)、おなじ状況にあっても、女性は自らの無力を認めつつ、そんな自分に何ができるのかを考えながら行動を移そうとするのに対して、男性のほうはぜんぜんダメな人がいて自らが置かれた状況を前にその状況が悪いと考え、御託を並べるか、思考停止になるか。おまけに自分が行動も思考もしてないくせに、こんな状況では行動も思考も無駄だという。
まったくあきれます。そう感じるなら自ら状況を変えるよう、行動や思考をすればいいだけなのに、それができずに自らの殻にとじこもる。御託と行動を一致できないのは自分の未熟さゆえなのに、それを認められないからよけいに未熟でみっともなくなる。自分の未熟さを認め、思考と行動が一致した形で前に進もうとする女性たちの対称さにあきれました。
なんで男性にこんなにも生きる力がなくなってしまったんだろう、と考えさせられます。まあ、一部の男性かなとも思いますが。
バイタリティ
ところで、バイタリティについて、僕は以前に「2009-04-25:絵を読む、言葉を鑑賞する」というエントリーで、バイタリティ=生命力があるとはどういうことかというと、いまのその人のポジションなりを外して考えたときに、その人が生き残っていけるかということだ。
その会社を辞めて生き残っていけるか、その人が社長なら社長という地位を追われて生き残っていけるか。
そういう環境適応性に余裕を感じられる人なら、バイタリティ=生命力が感じられるのではないか。
いまのポジションに甘じて、何かえらそうなことを言っているだけなら、それはその地位にない人の身体を動かすことばにはなりにくい。
と書いています。
先日はじめたばかりのTwitterでも、
バイタリティ。僕の定義は、自分の普段の生きる基盤がなくなった時に生き残れる力です。定年、転職、はじめての仕事。自分を生かしてくれるものの外に放り出された時に生きられるか? その意味で外部機器の装置に頼らない地方生活のほうがというのは正しい。
と書きました。
生きるための基礎力としてのリベラルアーツ的なものの必要性に関して、@MURAIIIさんと話していた中で、
表層的な情報が溢れる東京では、うっかりすると知識の咀嚼が疎かになりがちだな、と感じることがあります。地方に住んでいた時のほうがそこに意識的で、自然とバイタリティが湧いていたなとも思います。
と、@MURAIIIさんが発言してくれたことに対する返信でした。
ポジションが人が生きるために構築されたシステム上のツールであるなら、文字通りの道具であるさまざまなガジェット、公的な交通システムや流通システムのネットワークが完備された東京は、地方に比べて人びとからバイタリティを奪う可能性が高いといえます。
そのなかで知識や情報もまた、専門化、微細化しながら異なる領域との翻訳可能性を失っていっている。専門的に知識や技術を高度化する方向に自身の能力を高めることは可能でも、その専門の一歩外にでれば途端に生きる術を失ってしまうということが起こっているように思う。特に専門分野での活躍に流れがちな男性は。
そうした文脈での、基礎学=リベラルアーツの再構築が必要なのでは、という話でした。
バイタリティのない男性
以前に、定年を迎えた男性が仕事を失った瞬間、亡くなってしまうということがあると書きました。僕はそれをこれまで定年後、それ以前に生きる力を支えていた会社組織というコミュニティを失い、代わりとなるべき、家族というコミュニティも、地域というコミュニティもなかったりすることが、その原因ではないかと考えていました。でも、いまはそれに加えて、そもそも男性がバイタリティの弱さをもっているのではないかと思い始めています。バイタリティが弱いからこそ、生きるためのシステム、ガジェットを女性以上に必要とするのではないか、と。
例えば、数寄の遁世という言葉があります。西行や芭蕉は遁世して旅に生き、旅に倒れた。神話の世界では、スサノヲやヤマトタケルもそうような遁世者として描かれます。
あるいは出家という選択もある。いずれも以前のポジションを捨てて生きるバイタリティの高い人ができる選択でしょう。
しかし、遁世や出家が大それたこととして描かれるのは男性の場合が多い。
一方、女性はといえば、もっと一般的に嫁入りという行為によって以前のポジションを捨てることを当たり前にしている。網野善彦さんの『日本の歴史をよみなおす』
ポジションからの逸脱が大事な男性に対して、ポジションからの離脱がより日常的で一般的である女性。
そもそもここに女性の男性に対するバイタリティの優位性があるように思います。
それをこの1週間であらためて実感した気もする。
弱さの認識、弱さへの対応
あいまいな状況に動じたとしても、それをあいまいさのせいにするのではなく受け入れる女性と、あいまいであるとそのあいまいさがそもそも悪いものであるかのように排除したがる男性。状況が悪いと自分のせいもあると受け止めてなんとかしようとする女性と、状況が悪いと自分は何もできないダメ人間なくせにまわりの人の落ち度や状況の悪さを批判するだけの男性。
まったく弱いというのは、たちが悪い。
とはいえ、バイタリティが弱いのは弱いでかまわない、と思います。
いや、かまわないというよりそれは仕方がないことでしょう。
ただ、その弱さを認識できているか。また、弱さを認識した時、どう対処するか。
弱さをシステムやガジェットで補うのか。はたまた弱いなりに強くなろうと努力するか。
あるいは、自分の弱さを棚にあげて周囲の状況やまわりの人の責任追及に走るといったみっともない行動に走るか。
弱さを認識して、それに正しく対処することで、どうにかたちの悪さを軽減する。それが弱い男性に求められてることなんじゃないの?って思います。
まずはみっともなさの自覚かな、と
田中優子さんが『カムイ伝講義』格差社会とは、自分の生まれ育った環境に拘束され、他の暮らしを想像できないようになる社会だ。田中優子『カムイ伝講義』
まさに、バイタリティの弱い男性は、この「自分の生まれ育った環境に拘束され、他の暮らしを想像できないようになる」という状態に陥りやすい。そして、自分が弱いものであるがゆえに、自分の暮らしを守るために、他の暮らしを攻撃する。
それはみっともない行為だが、それをみっともないと感じるだけの強さが男性にはない。
このみっともなさに対する自覚がないということあたりが「当事者意識」で書いた他人のせいにしてばかりで当事者意識をもって自身の責任を問えない姿勢だったり、「興味と行動力」で書いたような、興味があるといいつつ、いざ話をしようとするとわからないだと御託を並べたり無言になってみたりと行動がともなわず常に準備不足になってしまうことの要因にもつながっている。
これは思ってた以上にひどい状況だなという感じがしたが、そういう弱者にむやみやたらと、ますますバイタリティを奪うきっかけとなるガジェットや専門知識やその他さまざまな生命維持システムを提供し続ける社会はこの先どうなっていくんだろうと思ってしまいました。
まずは、そういうものがないと自分たちは生きていけなくなっていっているというみっともなさへの自覚かな、と思います。
だからといってバイタリティがあるから女性がエライってわけでもなく、単に生命力があるってだけの話でもある。
いずれにしても、これは一理くらいはあるにしても、書き方に問題がありますね。すべての男性がこんなじゃないわけだし。
とにかく、格好つけようとしてがんばりすぎたり、知らないことをしったかぶりをせず、楽に生きることも覚えたほうが身のためなんだろうな、と自分も男だからこそ、そう思います。
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この記事へのコメント
おんはしら
「生物としての強さ」を身に着けなければなりませんね。
nariwaiaraki
私の友人の女性で、
「男は自分だけは特別だ、と思っている」
と言っていて、ドキリとしてしまいました。。
本当に何か突出したものを持っていて、特別と言われるような存在ならいいですが、
そうでない場合は、自分の事を棚に上げている人がいるように思います。
と言いながら、自分も分かりませんがね。。
hito
苺
オスは戦って殺し合い淘汰をへてその環境にとって強き物が生き残りメスを得ると言う生き残り戦略をとってきたので、従属した時点で負けであり殺されれたも同然という事になります。
雌雄のある生命はほとんどメスが強く、オスは時に大量の比率で存在して大半が競争のうちに死にます。
メスが負けたオスに呆れ返ったというのも、そういう事なんだと思います。
タカ
女性は多様な生き方が認められていますが、男性は学校を出たら定年まで(或いは死ぬまで)しっかり働き続けることが求められます。
最近はそうでもなくなってきているようにも見えますが、世間が男性に求めるものは、昔も今も変わっていません。
女性は嫁入りして以前のポジションを捨てても、世間がそれを求めているのだから、何の問題もありません。逆に男性が主夫になるというのは、世間的にはまだまだ認められているとは言い難いです
感覚的に、世間は男性に対して、死ぬまで働き続けることを求めてる気がします。女性に対しては、子供産んで成人まで育てれば後は何してもいい、って感じ。
女性になって気ままに生きたい、っていう男性、結構多いんじゃないかなぁ
tanahashi
それはその通りですね。
でも、そういう仕組みにしたのも男性だと思いますよ。
ちなみに知ってますか?
江戸時代は嫁入りは就職とおなじようなもので、家に入ったら従業員同様に働いたということや、古代には同じムラで血が濃くなりすぎるのを避けるために近隣のムラから嫁をさらってきたんだそうです。
意外と僕らが信じてる男性が働き、女性が家を守るってたかだか百年程度の歴史的にみたら特殊な仕組みでしかないんですよね。
僕は男性でもまわりとの合意の上、がんばりすぎることからは逃げていいんじゃないかと思います。
もちろん実行はむずかしいと思いますが、チャレンジはありかな、と。
B
女性はまず愚痴ありきで、ひととおり状況や相手をくさし、自分達の正当性をぶった後でようやく実務に入る。
男性が手早く解決策を指示しても、またそれを皮切りにそれはこの間はああでこうで……その時はそんな事があって大変だったわよね……全くどうしてこうなるのかしら……と、一歩前に進むのに十の愚痴や自己弁護が必要です。
自分が正しく相手がおかしい、という事を心ゆくまで周囲にアピールし全員の同意を取り付ける事なしに、彼女らが実務に入る事はほぼありません。
状況を選ばずに繰り出す「甘え」と「承認欲求」の合わせ技は、傾向としては女性の方がより得意としているんじゃないかと、常々思わされています。
25歳OL
あと男性女性をそれぞれまるで一つの生物のように書かれてもやはり説得力に欠けます。男性でもバイタリティのある人はたっくさんいらっしゃいますよ。例えばゴルフの石川涼くんだとかバイタリティあるように感じます。
muchacha
女性も増えると思います!日常生活が楽しくなって
大人も子供も元気になるはずです。と願ってます。
jakat
男女間の違いというよりは人間性の違いの方が大きいと思います。
人間が変るには何か大きなきっかけが必要です。
年を取るごとに社会的にも人間的にも変るのは困難を伴います。
自分が弱い人間だと認識できるきっかけが訪れるのは人によって違います。
では、早くのうちに挫折もしくは挫折間を味わった方がいいのでしょうか?
今の時勢、挫折した瞬間レールから外れます。弱い人間がレールから外れたらどうなるでしょうか?それこそ弱い人間ながらも特別でもないかぎり生き残れません。
でも、それはそれでいいと思います。弱い人間はさっさと淘汰されれば種として精錬されていきますから。
早い話が、弱い人間は奴隷として自覚をもち強い人間に使わればいいということでしょうか?
それと自分が弱い人間だと認識して行動する時点でそれは強い人では無いでしょうか?