運命

運命みたいなことを考えています。

人が自分ではどうしようもないものとしての運命。運命が決まってるか、決まってないかという話は割とどうでもよくて、むしろ決まってるかどうかがわからないことも含めて、人がどうにもできないものとしての運命を考えてます。

なぜ、そんなことを考えているかというと、人がどうにもならないものへの敬意とか、逆にどうにもならない運命の力を借りて進む他力本願みたいなものへの意識が足りないなと感じるからです。いや、正確にいえば、足りないどころか、人にはどうにもならないものを意識の外、社会の外に排除している。
排除しておいて、自分たち視点で何でも都合よく考える。自分たちができることの範囲で、できることとできないこと、あるいはできる人とできない人を順序づけています。
その方向性がなんともやるせないな、と。だって、人にはどうにもならない運命の前ではそんなできる/できないの順列はなんとも馬鹿馬鹿しいかぎりですから。

すべてが運命

とはいえ、運命などといっても僕がいってる運命は大それたものではありません。神秘的なところなど、いっさいない。運命など、そこら中に転がってる。あなたは僕の運命だし、昨日買った小鹿田焼の壺(別途紹介)は運命でしょう。いやいや僕がほとんど気にせずにいる道路のアスファルトだって、ハイチの地震だって、明日の天気だって、僕の運命を左右する。僕以外のすべてが僕にとって運命だし、自分自身ではどうにもならないところのある僕自身の身体だって運命なのでしょう。
僕はそうした自分ではどうにもならない運命に左右されながら生きている。僕が意識しようがしまいが運命は僕を悪戯にもてあそびます。

けれど、同時に、僕はその運命の力を借りてしか生きられない。そのことを意識してるかどうかは関係なしに。他力本願。

あるがままへの敬意

デザインという。改善という。
人の暮らしを、人が生きる状況をよくしようという。
そのとき、運命は視界に入っているか?

入っていればどうにかなるという話でもない。運命を視野に置くことはこの上なく大事だと思うが(それがないと覚悟が決まらない)、運命を視野にいれたところで運命そのものを手なづけられるわけでもない(手なづけられないのが運命だから)。

ただ、運命の悪戯を感じることさえなく、これはプラスだ、改善だと信じるのはいかがなものか。そのプラスやマイナスを測る物差しがいったい、いかほどの普遍性を有しているのだろうか、と。いやいや、諸行無常をなる早に悟るべきではあるまいか、と。

まあ、物差しを使って測るのは悪くない。それがある閉じたルールの下での興だとわかって用いるのならば、その場に参加したものを楽しませることができる。
ただ、同時にその物差しもまた運命の上に乗っていることを忘れないほうがよいだろう。そして、物差しがいつ運命の悪戯で無効化しても、そのあるがままを受け入れたい。それが遊ぶものに必要な覚悟ではないか、と。
そういう遊びを知らぬ者が何か思いどおりにいかないことに出くわすと、やれ訴訟だ、やれ弁償だ、欠陥だと騒ぎ立てる。遊びを知らない世の中は住みにくい。

運命と遊ぶ

そろそろ要点をまとめることにします。

ひとつは、人はもっと物そのものに目を向けたほうがいいということです。人がデザインして機能化し、スタイル化し、記号化した人工的なところばかりを見るのではなく、その人工物の内にある非人工的なところにもちゃんと目を向けたほうがいいということです。そして、その人がつくってない部分を畏れ敬ったほうがいい。

ふたつめには、もっと運命と戯れ、運命と遊ぶことが必要ではないかということです。計画的すぎてはつまらない。リスクを避けてばかりでは興がない。遊ぶのは神だけだそうです。人は神を真似ることを通じてしか遊べないそうです。この神は運命です。人が神を手なづけるのではないでしょう。人は神に遊ばれるのです。そこにしか人が遊ぶ手だてはないのでは、と。

みっつめに、「もとに戻す」という業を取り戻したい。デザインというのは本来は諸行無常であるところのものを人工的に止める業です。それはそれであっていいのだけと、もうひとつ業として、諸行無常に変化したものを「もとに戻す」という業がほしい。神宮の式年遷宮のように時間がたつと、もとに戻る。あるいは祝詞を唱えればもとに戻る。秋に稲穂が刈られた田がまた春になれば苗が植えられるように。
そんな運命とのつきあいかたがあっていい。

そして、最後に、僕は運命の囁く声にならない小さな声にじっと静かに耳を傾けていたい。
それは時には鶯の鳴く声であり、梅の香であり、秋の夕暮れでもあり、はたまた織部茶碗のゆがみであり、等伯の松林であり、光悦の書であるのかもしれないのだから。



関連エントリー

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック