手入れとデザイン

僕は『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』のなかで、「いま自分たちが置かれた状況をすこしでも良くしようと思って仕事をしているのなら、その仕事はデザインなのです」と書きました。

でも、実は「デザイン」とは別にもうひとつ、自分たちが置かれた状況をすこしでも良くしようと思ったときに、人間が使える方法があると思っています。

それが「手入れ」。

養老孟司さんは『手入れ文化と日本』書評)のなかで、こんな風に言ってます。

自然というのはみんなそうですが、「自然のまま」にしているわけです。それに対して人工そのものの意識というのは「思うようにする」ということです。自然は思いのままにならない典型です。自然は非常に強いものですから、これを思いのままにしようとしても無理だということはわかっています。そこでどうするかというと、これに手入れをして人工のほうに引っ張るわけです。これが本来の手入れです。

と。

これが、自分たちが置かれた状況をすこしでも良くしようと思ったときに、「デザイン」以外で人間が使えるもうひとつの方法である「手入れ」。

僕は最近「人間がつくれないモノ」ということをよく言うんですが、そのときの方法としてこの「手入れ」を意識しています。

自然の生命の法則のまま活かして使う

自然を人間の思い通りにてなづけようというのが「デザイン」の発想だとしたら、「手入れ」も結局は人工のほうに引っ張るんだけど、人間が好きなように引っ張るのではなく、あくまで自然の意思を認めつつ、その力を借りつつ、引っ張る。

西岡常一さんが『木に学べ―法隆寺・薬師寺の美』(書評)で言ってます。

技術というもんは、自然の法則を人間の力で征服しようちゅうものですわな。私らの言うのは、技術やなしに技法ですわ。自然の生命の法則のまま活かして使うという考え方や。だから技術といわず技法というんや。

と。
この技法を使うのが「手入れ」かな、と。「自然の法則を人間の力で征服しよう」っていうんじゃなく、「自然の生命の法則のまま活かして使う」という方向で、人工環境をつくりだす。
ここで西岡さんは法隆寺、薬師寺といった建築物を対象に話されてますが、僕がイメージしているのは、もっと自然の力をそのまま借りたところの多い畑や田んぼ。なので、この人工環境はほっとくと自然のほうに流れて、人が期待する作物よりも雑草のほうが多くなったり、はたまた実った作物が鳥や動物に荒らされたりもするし、旱魃や水害で被害を受けたりする、そういう人間のコントロールが及ばないところをあわせもった人工環境。

うまくいくのが当たり前なデザインされた環境と違い、手入れによって生まれる人工環境はうまくいくかどうかは当たり前でもなんでもない。このあたりはさっき「わかりにくさ、あいまいさの必要性」で書いた「リスクに対する許容性や、不可解なものに対峙した時の精神の耐性みたいなものがなくなりすぎてる」という話につながる。リスクや不可解なものを引き受ける思想や行動規範がないと「手入れ」の方法は避けられ、すべてが「デザイン」され、リスクは予測され計算され、リスクヘッジの対象となる。

Nature-centric 自然中心

もうひとつ「手入れ」と「デザイン」の違いをイメージするための例をあげておきましょう。
『デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く』書評)に掲載されている、利休の茶碗をつくったことで知られる楽焼=長次郎の15代目となる樂吉左衛門さんの話です。

自分の焼物ができるだけ<デザイン>でないことをもって、評価するようなところがあります。<これ、デザインになってないからいいなぁ>といった具合なんです。焼物において、ここが膨れ、あそこがへこんでいることに意味はないわけですが、その意味を造形的に貫徹し、整理していくとデザインになります。そういうふうにわたしは<デザイン>という言葉を使います。
樂吉左衛門「日本文化が生まれる場と条件」
『デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く』

樂吉左衛門さんは、陶器のような焼物は火の入り方でできあがりが大きく異なるといっています。しかも、火を完全にコントロールすることはコンピュータを使っても不可能だから、偶然性におうところが大きいものだといいます。その上で「自分の焼物ができるだけ<デザイン>でないことをもって、評価する」というのです。
このモノやものづくりそのものへの対峙の仕方が「手入れ」だと思います。

さらに例をひきましょう。今度は柳宗悦さんの『工藝の道』からです。

今日美術と呼ばれるものは皆Homo-centric「人間中心」の所産である。だが工藝はそうではない。そうでないがために卑下せられた。しかしそうでないが故に讃美される日は来ないであろうか。工藝はこれに対しNature-centric「自然中心」の所産である。ちょうど宗教がTheo-centric「神中心」の世界に現れるのと同じである。

Nature-centric、「自然中心」。柳宗悦さんは「他力本願」ともいいます。民藝は自然の力と歴史がつみあげてきた職人の技に依るといい、それを個人としての作家ひとりの力と比較して、他力本願を大事にします。民藝の職人は決してひとりでモノをつくっているわけではなく、西岡常一さんが「自然の生命の法則のまま活かして使う」方法とする技法をまさに先人から受け継ぎながらつくり、当然、そこには自然の生命の法則のまま活かされます。
そのことを大事さを、柳宗悦さんは日本民藝運動で訴えました。けれど、残念ながら、工藝に限らず、人間によってつくりだされるものが、Homo-centric「人間中心」でないが故に讃美される日はまだ来ていません。

西洋の「デザイン」、日本の「手入れ」

僕はいま「デザインの誕生」というシリーズを書いていますが、西洋のように砂漠という自然環境で生まれた文化は、森や山の自然環境で生まれた「手入れ」の思想をもつ文化とはやはり違うと思うんです。

多湿で温暖な日本ではほっとけば雑草も生えるし、カビも生えるわけですが、砂漠と石の自然環境では逆にほっとくと何もおこらない。もちろん、風が吹いて砂が移動するようなことはあるでしょうけど、植物が育ったり、その植物が動物の成長の糧になるというような変化はもたらさない。ほっとけば人間も含め、生命は死ぬわけですからなんとか自分たちで生きるために何かを生み出すことをしなくてはいけない。そういう砂漠の土地の思想から生まれた方法が「デザイン」ではないかと思っています。そして、そのデザインは中世のキリスト教世界では神の創造の力とされた。神だけが、神こそがデザイナーだった。

そうした砂漠の環境とは違い、高温多湿な日本では(たぶんインドや中国もそうでしょう)、ほっといても自然は勝手に実をつける。それは食用の実であることもあれば、毒きのこでもある。あるいは目の前の実に心を奪われてぼっとしていれば森の中に住む猛獣に襲われて、食べるつもりが食べられてた、というオチにもなりかねない。はたまた、そうした実がある森は人間ではとてもつくれないような複雑な迷路であったりもするので、実があるところまでたどり着くための道を知る必要もある。そうした環境で必要とされる知識は、砂漠の地で必要とされた知識や行動規範とは明らかに違ったであろうと思うのです。

そうした森や山の思想は、すべてを人間が生みだそうという「デザイン」の方向には行かなかったのではないか。それよりも自然とどう付き合っていくかという「手入れ」のほうに傾く傾向があったのでは。そして、唯一絶対の一神ではなく、いろんな力をもった多くの神を必要としたのではないか、と。

思い通りにならないのは、自然だけでなく、人間同士の関係もそうだったりするし、実は自分自身さえ、思い通りになんてできない。言葉や数字を使って、いくらデザインしたり、構造化したり、論理化したり、システム化しても、必ず、そこからはみ出てしまい、割り切れない自然というのがある。そういう部分はやっぱり「手入れ」をするしかないのかな、という気がする。

手入れとデザインが両輪として動く

そうした「手入れ」という方法の復権が、さっきの「わかりにくさ、あいまいさの必要性」という話にもつながっていきます。

人間が結果を完全にコントロールするためにデザインするのではなく、ある意味、神頼み的なところも含めて「他力本願」で手入れをする。間違っちゃいけないのは、この他力本願は他人任せではなく、他人を信じて祈り、かつあくなき努力するということです。計算によって答えが出るとか、特定の方法を使えば結果が出るとか、病院にいけば必ず病気が治るとか、賞味期限は必ず正しいとか、安いものより高いもののほうが必ず価値があるはずだとか、そういう予定調和が成り立たないことを知ったうえで、他者を信じて自身が努力し続ける。
そういう「手入れ」へのシフトが必要なんじゃないかと感じてます。

もちろん、デザインがなくなる必要はなくて、手入れとデザインが両輪として動くことが望ましいと思うのです。

それには、いい加減、機械的、自動的に答えが出る方法があるんじゃないかという妄想を脱する必要があるし、「わかる」というのが単に人工的な答えを鵜呑みにしてるだけで現実の対象からはどんどん遠ざかって、むしろ「わかってない」状態に進むことでもあるのだということに気づかなきゃいけないと思うんですよね。

デザインだと新しくモノを作ることがある意味、前提になると思いますが、手入れの場合だと必ずしもそうはならない。モノを作る必要がないという判断も大いにありえて、既存にあるものをいかに活かすか、あるいは過去のものをいかに復刻するかということも選択肢に入ってくる。
新しくモノをつくらないという判断が可能なことこそ、手入れという方法がいま求められるものだろうと思える一番の理由です。
「デザインしない」という消極的な方向ではなく、「手入れをする」という積極的なシフトが必要かな、と。

そうはいっても、このブログのタイトルを「手入れ IT!」には変えたりはしませんがw

   

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