わかりにくさ、あいまいさの必要性

最近よく思うこと。
理解されすぎちゃダメ。理解されるより理解しようというきっかけになることが大事だなって思う。

1つの固定した「理解」を伝えようとすれば、どうしても押し付けにならざるをえない面がある。けれど、実際の「理解」は決して1つではない。ある事象にはさまざまな「理解」があっていい。いや、ないといけないと思う。

いまって「理解」を固定することで、安心したがる傾向が強すぎるのではないか。すぐに答えを求めがちで、自ら答えをつくることしかないということに対して腰が引けてしまっているし、そんなこと考えてもみない人がいたりする。
そんな人に「理解」を安易に渡してしまうことに、僕は最近戸惑いを感じています。それは相手の思考停止の片棒を担ぐことになってしまうから。

「伝わっていない」を認める

コミュニケーションというものを、モノの交換みたいに、あるモノが一方から別の一方へ移るような形の、情報の行き来と捉えてしまうのは違う。形の決まったものが右から左へと移動するといったようなイメージで、コミュニケーションとか、伝達というものを捉えると違うなと思うんです。

そうではなく、コミュニケーションというのは、ある情報なり、言葉なりを、発した方と受け取る方で、それぞれ解釈や編集が起こる場だと考えたい。とうぜん、発した方と受け取る方でそれぞれ解釈・編集が行われているのだから、双方で「理解」は違っていい。いや、違わないことがヘンなのです。正しく「伝わる」なんてことを前提においてしまうと大きく間違ってしまう。

ある意味ではそれは「伝わっていない」ということにもなるかもしれない。でも、僕はその「伝わっていない」をもっと認める必要があると思っています。

「伝わる」ことと「使える」こと

わかりやすく「伝わる」ために、モノの価値を定価で固定したり、賞味期限を表示したり、テレビの画面の下にテロップを入れたり。そういうのはなんか違うな、と感じる。それがここ数年、ユーザビリティ(使いやすさ)に関わる仕事をしてきた僕の感じていることです。

本当は「使えない」というのは、使い方が「伝わっていない」からというより、使い方が「伝わっていない」と使えないこと自体が問題なんです。使い方がたった1つに厳密に固定されすぎてしまうことが問題。鉛筆で背中を掻いてもいいし、椅子を高いところにあるものの踏み台にしてもいい。あるボタンを正確に押さないと機能が使えないというデザイン自体に問題がある。

操作の仕方を1つに固定することが、商品に定価や賞味期限を設けたり、テレビの画面にテロップを入れたり、ライフハックと称した仕事の方法ばかりを欲しがったり、ということと、それが同根だということに気づかなさすぎてるのではないか、と。そのことがすごく気になる。
みんなと同じ状態、答えが1つに決まっている状態、不安定でうつろう状態よりも安定した状態を求めすぎているのではないかと思う。リスクに対する許容性や、不可解なものに対峙した時の精神の耐性みたいなものがなくなりすぎてるな、という気がしてならない。

忘れられたマイノリティ

すこし、話は変わりますが、いま読んでいる『室町人の精神』という本に、こんなことが書かれていました。

それにしても全会一致原則といい、時間がかかることといい、室町幕府の意思決定方法は、宮本常一が『忘れられた日本人』に描いた村の寄合と何と似ていることか。おそらく中世惣村の寄合も同様の方法をとっていたと思われるが、室町幕府もまた、中世に存在したさまざまな社会集団のひとつとして、それらと共通の原理に規定されていたのである。

確かに宮本常一さんの『忘れられた日本人』書評)には、全会一致の結論が得られるまで幾日も幾晩も話し合う村の集まりの様子が描かれていました。それを読んだ際も非常に興味深く、考えさせられたのですが、それが中世室町の幕府や惣村の寄合にまでつながるのを知り、現在の多数決で何でも決められてしまう世の中との思想、行動原理の違いを感じます。

いわゆる多数決というのは、数字によって白黒つけるわけですが、それは白黒の一方を数字の多さによって強引に一方を捨ててしまう方法です。その方法ではマイノリティの側は強引に切り捨てられる。
これはビジネス主導の世の中で、売れないものは必要ないものとして切り捨てられることにも通じます。売れないというのが1つも売れないというのであれば、まぁ仕方ないのでしょうけど、すこししか売れない、期待したほど売れないという結果や、はたまたそういう予測のみで、少数派の人びとが求める商品を切り捨ててしまう発想が当たり前になってしまっているのはいかがなものか。その発想を否定するつもりはまったくないけれど、それとは違うオルタナティブな方向性というのがないこと自体は問題だと感じます。

わかりにくさ、あいまいさの必要性

全会一致の原則というのは多数決とおなじように最終的に答えは1つに決まるように見えても、それは単純に二律背反的に白黒をつけるのとは違い、マイノリティの意見も包括するようなグレーな答えを採決することが多いのではないかと想像します(ついでにいうなら今の多数決で白黒つけられた答えというのはなぜかグレーで、それはマイノリティを取り込んだというより誰の役にも立たない答えを選んじゃうとこがおろか)。

とうぜん、全会一致の答えはグレーなのであいまいだし、答えが1つに決まったようで、決まってないようなところもある。でも、あいまいだったり、答えが1つに決まらないことは、そんなに問題なのか? 僕はそういうのもあっていいんじゃないかと思うんです。いや、そういうあいまいさや不確定さをもうすこし受け入れられる、思想や行動原理を取り戻す必要があると感じています。

それはわかりにくくて、あいまいで、決めるのに時間もかかるし、めんどうなんだけど、そういうグレーなものを現代は排除しすぎたんじゃないかな、と。そんな風に感じてならない。

そのわかりにくさやあいまいさが、個々人に課すリスクや不安定さを過剰に嫌いすぎて、排除しようとする力が強すぎているのではないか。自分でわかろうと努力することもなく、できあがった答えばかりを求めてしまう。
それによって失ったものは何かといえば、自らが目の前の状況から判断する力、価値とリスクをいっしょに読み取る力、他人を許す力、そういったものではないか。そんなことを感じてなりません。

わかりにくさやあいまいさって実は必要なものでもあることをもう一度考えてみる時期なのではないかな、と。

 

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この記事へのコメント

  • Sho Hashimoto

    ニクラス・ルーマンですね。
    コミュニケーションは情報伝達ではなく、おのおのが勝手に解釈している。むしろその解釈ができなかったりズレたりする所で社会秩序が産まれるとか(ダブルコンティンジェンシ)
    2010年01月25日 02:11
  • 非常に共感する内容でした。

    丁度後輩とわかりやすさの話になり、
    そこで河合隼雄という心理学者の本で「わかりにくさの大切さ」に触れており、
    とても参考になりました。

    わかりやすさは反応的に対応できるので、
    そのリスクや怖さを知らないと、思慮的な力を失い、
    或いは、大切な何かを見失ってしまう。

    私もこれで痛い目にあった事もあり、
    まさにそう考えていたので、この記事を読んでとてもうれしく思いました。

    良い内容を読ませて頂き、ありがとうございました。
    2011年06月06日 18:43

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