下剋上と文化の平民化(デザインの誕生6)

前回の「コトをモノにした時代」の最後に、雪舟が「中国離れ」を開始した時期が、応仁の乱の時期であり、それは内藤湖南さんが『日本文化史研究』(書評)のなかで、日本文化の中国からの独立し、さらに文化が庶民レベルのものに変化していくのが応仁の乱以降であるとしたこととの重なりをみると、非常におもしろいことだと書きました。

かくのごとく応仁の乱の前後は、単に足軽が跋扈して暴力を揮うというばかりでなく、思想の上においても、そのほかすべての智識・趣味において、一般に今まで貴族階級の占有であったものが、一般に民衆に拡がるという傾きをもってきたのであります。これが日本歴史の変わり目であります。

この「日本歴史の変わり目」に雪舟はいた。それまで中国を真似るだけであった水墨画を、日本の水墨画にした。

いや、雪舟だけではない。
松岡正剛さんの『山水思想―「負」の想像力』書評)を参照すれば、それが確かに内藤湖南さんがいうように、文化においても「日本歴史の変わり目」だったことが浮かび上がってくる。

ここには日本感覚や日本流をあらわすための「日本という方法」が生まれてきたのである。(中略)その方法は水墨画だけに生まれてきたのではない。雪舟の時代にしぼってみても、珠光の茶にも、池坊の花にも、床の間にも、枯山水にも、書院にも、会所にも、その方法は動き、その方法が日本感覚と日本流の表現をつくるあげていったというような、そういう方法である。

侘び茶の祖といわれる村田珠光(1423-1502)は「此道の一大事ハ、和漢之さかいをまきらかす事、肝要肝要」といいました(「此道の一大事ハ、和漢之さかいをまきらかす事」参照)。それまで中国や朝鮮のものを名物としてきた茶の世界で、和物にも良さを見出し「和漢之さかいをまきらかす」ということで、唐物と和物を同じように使うことを大事にした。それが千利休の茶にも、その楽茶碗にもつながっていきます。

しかし、なぜ応仁の乱を境に、日本文化の「中国離れ」が起こったのか。
それは具体的には、どのような「中国離れ」だったのか。

今回と次回にわたっては、そのあたりをすこしずつ紐解いていこうと思います。

下剋上

内藤湖南さんは、一条禅閣兼良という人が応仁の乱について書いた書物から「左もこそ下剋上の世ならめ」という言葉を引き、「最下級の者があらゆる古来の秩序を破壊する、もっとも烈しい現象」が下剋上だと考える必要があると書いています。

その下剋上は、単に身分の下の者が上の者を倒して、それに取って代わることだけを意味するのではなく、昔は秩序、階級制度として守られていたことが、応仁の乱の時期には、もはや制度というものは時勢につれて変化するものだという認識に変わったことも含めていうのだということを書いています。
内藤さんは、そうした変化が起こったことを昔の秩序が失われたことを嘆く人が書いたこんな例をあげて示します。

たとえば即位式は大極殿で執り行うというのが例だということになっているが、大極殿がなくなると仕方なしに別殿で行う、別殿もなくなるとまたなにかその時々に相応したところで行わなければならぬ、それで大法不易の政道は例を引いてもいいが、時々に変わり、時に応じてやるべきものは例にしてはいけない、時を知らないからいけないということを書いてあります。

これは大極殿がなくなったときに仕方なく別殿で行った即位式が単なる間に合わせとして捉えられるのではなく、もはや、そういう例もあっていのだという認識に変わってしまうことを嘆いているのです。まさに「古来の秩序を破壊」下剋上が起きたあとの認識なのでしょう。

また、この時代にはそれまで天子をはじめごく一部の貴族に配られていた暦が、仮名でわかりやすく書き直されて伊勢で平民にも売られるようになっています。同じ時期に伊勢はそれまで一般の人々には許されていなかった参拝を許すようになったという変化も起こっています。

このように、それまで一部の特権的な階級のものであったものが、次々に平民化、民衆化していく流れも含めての下剋上の時期が応仁の乱前後にあたっていたということです。

義満による公武の一体化とその後

では、なぜこうした下剋上が起こったのか。

伊勢の話に関していえば、それはもはや朝廷からの保護だけでは伊勢の維持費を得るのが困難になったからでした。それで平民にも参拝を許し、一般参拝人からもお金をもらったのです。いまのお賽銭ですね。いまも日本各地の神社で伊勢の次の遷宮に向けてお金を集めていたりするのを見かけますが、そういうことがはじまったのが、応仁の乱の頃だということです。

もちろん、伊勢が朝廷からお金を集められなくなったのは朝廷が弱っていたからです。室町期においては3代将軍、足利義満の時代に、天皇の公と将軍家の武の一体化が実現しています。

公武いずれから出た意思かが曖昧なまま、伝奏という同一のチャンネルを通過することによって、漠然とした「上意」が形成される構造こそが、室町時代における公武関係のあり方―公武が一体となって支配をおこなう権力構造―を象徴しているのである。伝奏の補任権も、形式上は天皇・院にあったとはいえ、現実には天皇・院と将軍家の協議によって決定されており、その意味で室町時代の伝奏は実質的に公武の共有物ということができる。(中略)義満はこの革命的な権力構造の転換―公武の一体化―を、後円融上皇の市、後小松天皇の若さという朝廷権力の空白を突いて一気に実現したのである。

鎌倉期においては、天皇と幕府は2つともども権力をもっていました。しかし、この義満のとき、それが一気に一体化する。天皇の「神慮」までは義満=幕府は手に入れることはできなかったのですが、ただ、もはや外からはひとつとしか見えない形に公武が一体化することで「神慮」を自由に用いることができるような権力構造を確立したのです。
この公武が一体化した権力構造であれば、朝廷そのものは実は弱体化していても、一体となった権力により伊勢の保護もなんとか可能だったのでしょう。

ところが、その室町幕府さえ、応仁の乱の頃には力を失います。いや、失ったからこそ、その後の戦国時代に突入するような内乱が起こったのでしょう。
そうなると、もはや伊勢を保護するための維持費をまかなうことは不可能です。それで先のように、平民にも参拝を許可せざるをえなくなったのでしょう。これは伊勢だけでなく、高野山などの寺においても起こったことです。

こうした朝廷や幕府の権力の衰退。それが応仁の乱前後に下剋上が起こった背景といえるでしょう。
ただし、下剋上だけでは文化の平民化は説明できたとしても、文化の「中国離れ」を説明することはできません。
それにはやはり日本の国外に目を向ける必要がある。

それについてはまた次回に。

シリーズ「デザインの誕生」
  1. ディゼーニョ・インテルノ
  2. ルネサンスの背景
  3. 主観と客観の裂け目の発見
  4. サブジェクトからプロジェクトへ
  5. コトをモノにした時代
  6. 下剋上と文化の平民化


   

関連エントリー

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック