コトをモノにした時代(デザインの誕生5)

1週間ほど前、「明るすぎる世の中で」というエントリーを書こうと思ったのですが、なんとなく書くタイミングを逸して書くのを忘れていました。

書こうとしたきっかけは2つあります。

ひとつは田中優子さんが『未来のための江戸学』書評)の第4章の「江戸の照明」という「照明は明るいほうがいいのだろうか?」の一文ではじまる節で、江戸の夜の暗さの美しさに触れていたのが印象深かったから。
田中さんは、その節で、上田秋成の『雨月物語』も、吉原の太夫の薄化粧も、浮世絵も、江戸の暗さや薄暗い行燈の灯りゆえに美しかったと書いています。

カラーの挿し絵や浮世絵を見ることに関しては、問題ないどころか夜になって行燈の下で見るほうがいい。それを意識して印刷していたのではないか、とさえ思えるほど、浮世絵が美しい。「きめ出し」と呼ばれる、色を使わずに紙を凸にふくらませた部分や、「きら摺り」と呼ばれる雲母を使用した色摺りなどは、その効果の意味が行燈の下で初めてわかる。ほんとうに立体的に見えるからである。浮世絵は行燈を使った仮想現実であった。

江戸時代より前に遡れば、金色に輝く仏像や仏画もおなじようにろうそくの灯りに照らされてはじめて輝かしい浄土をイメージさせるものになるというのを、たしか松岡正剛さんの何かの本で読んだことがあります。

もう1つは昨年の暮れに、その松岡さんが主催する連塾というイベントに参加した際、資生堂名誉会長の福原さんが「昼間の星を見る」という話をされていたのが、これまた印象に残っているからです(「詩のことば、合理の言語」参照)。
昼間の星どころではないなと思うのです。夜の暗さを失った僕たちは、空にはたくさんの星があることを忘れています。例えば、西表島などの明かりがない場所にいけば、夜の空には驚くほどの星があるのがわかります。
明るすぎて夜の美しさを失った僕たちは見えないものに対する想像力をもたないといけないような気がします。

温故知新

僕らはつい現在のもの見方で過去をみてしまいがちですが、そういう見方ではあまりに多くのものを見落としてしまうのではないかと思います。

田中優子さんもこんな風に書いています。

このように考えてくると、異なる価値観、異なるエネルギーシステムを持った社会を、自分の生活を基準にして簡単に「不便」「貧しい」といってはならない、と思うようになる。文庫本を行燈の下で読んでも読めない。出版社で出している現在の浮世絵集の浮世絵を行燈の下で見ても、行火が反射して目をいためる。これは単に「合っていない」だけである。だから「行燈は貧しい」「ろうそくはおかしい」といったとき、私たちは自分自身の貧しさを見失う。

現代の目で過去を判断してはいけない。現代の環境、現代の価値観、現代の思考や行動を左右するシステムとは別のシステムが過去にはあったのだから。

ここまで書いてきたように、ルネサンスの時代に遠近法が生まれるまで西洋に主観と客観の意識はありませんでした。客観としての外部と主観としての人間の関係が意識されなければ外部環境の問題点を自分たちで改善しようなんて夢にも思わない。いや、思えないんです。そういう過去と現代の人間の違いを僕らは見失っている。
ナイフを両手に持った食事の不便さは、主観と客観が意識されたあとにしか出てこない。だからフォークはルネサンスの時代に生まれている。デザインという現状の問題を改善するという活動そのものが遠近法の発明と関連していることがわからなくなってしまっている。

そういう過去と現在の違いに目を向けないと自分たち自身が見えてこないかな、と。外国にいくと日本が見えてくるというように、いまと違う過去を知ることではじめて見えてくる現在というものがあります。
明るすぎて何でも見えているつもりの現代だからこそ、いまと違う過去を感じとる感性を大事にしなくてはいけないなと思います。

温故知新というのはそういうことです。
過去を学ぶというのは単純に昔を知ることではなくて、過去を通じて現在を見るということでしょう。そうしなければ僕たちは自分が見えないのですから。

このシリーズは、そういう危機感をもっているから書いています。感性を働かせるということは、ぼんやり見るということではなく、積極的で具体的な作業を通じた手探りによって、身体で見るということにほかならないからです。ぼんやり見たのでは見えないものを見るためには具体的な方法が必要なのです。遠近法がはじめて中世までとは違う見方を可能にしたのとおなじように。

では、前回の予告どおり、今回からは視点を15世紀以降の日本に移動させてみることにします。


日本画の原点

雪舟は1420年に生まれ、1506年頃死んでいる。つまり15世紀の人です。

その前半は世阿弥が1402年ころに『風花姿伝』を、1424年に『花鏡』を著した時代です。1467年に応仁の乱がはじまったとき、雪舟は明に渡り、1469年に帰国しています。
それは1474年には一休が大徳寺の住持となり、1482年には足利義政が東山山荘(銀閣)の造営に取りかかり、翌年には狩野派の祖である狩野正信がその銀閣に『瀟湘八景図』を描いた時代でもある。これは一説には、雪舟が将軍の注文を辞退したため、正信にお鉢がまわったともいわれています。もしかしたら、それがなければその後の狩野派の勃興もなかったかもしれません。
「枯れかじけ寒かれ」という句で冷え寂びの境地を開いた連歌氏の心敬が亡くなったのが1475年、その心敬の冷え寂びや藤原定家(1162~1241年)の「みわたせば 花ももみじも なかりけり うらのとまやの 秋の夕暮れ」という有名な歌の心をもとに、侘び茶を確立したとされる武野紹鴎(1502~1555年)もまた雪舟のすこしあとの人です。
雪舟自身は、その代表作といわれる『天橋立図』を1481年頃に、『四季山水図巻』を1486年に描いている。

前回までの西洋ルネサンスとの関連でみれば、ボッティチェルリの『春(プリマーヴェラ)』と『ヴィーナスの誕生』がそれぞれ1477年と87年、レオナルド・ダ・ヴィンチが『岩窟の聖母』を書いたのが1486年です。レオナルドはその後、1498年に『最後の晩餐』を、雪舟がなくなったとされる1506年に『モナリザ』を描いていて、レオナルド(1452~1519年)と雪舟がほぼ同時代人であることがわかります。さらに若いミケランジェロは彫刻作品『ピエタ』を1499年に、システィーナ礼拝堂に『最後の審判』を描いたのが1541年で、すでに1527年のローマ劫掠(Sacco di Roma)以降のマニエリスム期に入っています。遠近法を確立を記すアルベルティの『絵画論』が1434年。1463年にはマルシリオ・フィチーノが『プラトン全集』の翻訳を開始しています。

ここで雪舟の話を書こうと思ったのは、もちろん、こうした西洋のルネサンスとの同時代性もあるのですが、それよりも何より、雪舟こそが「日本画の原点」ともいえるからです。

中国離れ

松岡正剛さんは『山水思想―「負」の想像力』書評)のなかで「中世はコトをモノにした時代だった。方法が文化になった時代なのだ」と書いています。
南北朝期をふくんだ中世に日本文化的なものがほぼ形成されたといわれます。先にあげた大まかな歴史の流れをみてもそれが感じられます。雪舟の同時代に、世阿弥がおり、一休がおり、狩野正信がおり、心敬、武野紹鴎がいる。そのすこし前には夢想疎石やバサラ大名といわれる佐々木導誉がいる。五山文化が花開き、室町アカデミーがつくられた。

中国は元朝の支配となって、中国文化は南下する。さらに元朝が混乱期を迎えると、それらの文化は禅宗と水墨画と会合をセットにして日本に押し寄せる。禅僧は日本におちのびてきて五山に落ち着く。
そこで日本でも水墨画が描かれるようになる。ただし、初期の水墨画は中国の水墨画の写しであった。もちろん、そこでもいろいろな試みがなされている。

中国文化がどっと入ってきたときに、かえって日本的なものが創発されてくるというのは、日本史の中ではしばしばおこってきたことである。とくにそこに外国人の移住がともなっているときにはおこりやすい。安土桃山期にフロイスやヴァリニャーノらの宣教師が日本文化に理解を示したことや、明治期にフェノロサやハーンやコンドルが日本的なものの応援にまわったことなどをおもいあわせるとよいだろう。

こうした時代に、雪舟による水墨画の「中国離れ」がはじまります。
西洋におけるルネサンスがある意味では芸術を神学的イメージからの従属からの離脱であったとすると、日本では同時期に中国離れが起こっているのです。

その雪舟が「中国離れ」を開始した時期が、応仁の乱の時期であるというのが非常に興味深い。なぜかというと、内藤湖南さんが『日本文化史研究』書評)のなかで、日本文化の中国からの独立の時期を、応仁の乱以降と断言しているからです。また、その独立とともに文化が庶民レベルにまで浸透したというのもおもしろい。

次回はこのあたりを探っていこうと思います。

シリーズ「デザインの誕生」
  1. ディゼーニョ・インテルノ
  2. ルネサンスの背景
  3. 主観と客観の裂け目の発見
  4. サブジェクトからプロジェクトへ
  5. コトをモノにした時代


   

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