主観と客観の裂け目の発見(デザインの誕生3)

前回の「ルネサンスの背景(デザインの誕生2)」の最後に、ルネサンスの中世からの変革の背景を支えた思想に、ネオプラトニズムがあったと書きました。

ネオプラトニズム(新プラトン主義)は、はじめ紀元3世紀頃にプロティノスによって開始され、ルネサンス期に再び盛んになった思想です。古代ローマ帝国の流れをくむ東ローマ帝国が1453年に滅亡にした際、多くの知識人が携えてきた古代ギリシャ・ローマの書物や知識がイタリアにもたらされます。中世のスコラ哲学ではアリストテレスの思想が重視されたこともあり、プラトンの思想(もしくはその思想は背景としたネオプラトニズム)はいわば忘れられた存在でした。それが東ローマ帝国からの古代の知の流入をきっかけにプラトンへの注目が集まることになる。
1463年にはマルシリオ・フィチーノはプラトン全著作のラテン語翻訳を開始し、1474年には『プラトン神学』、1475年にはプラトンの『饗宴』の注釈書の形をとった『愛について』を著します。フィチーノはさらにヘルメス文書の翻訳や実践的な占星術の研究も行っており、それをプラトン主義にも融合させていく。そのヘルメス主義を融合したネオプラトニズムは、弟子であり、ユダヤ人以外でははじめてカバラを極めた人物とされるピコ・デラ・ミランドラにも受け継がれます。

こうしたネオプラトニズムの思想が、マニエリスム期になるとツッカーリなどにより芸術理論へと統合されます。
ディゼーニョ・インテルノ(デザインの誕生1)」で書いたとおり、ツッカーリは「わたしたちの精神にあるイデア」とプラトンの用語を用いながら、それを「内的構図 Disengo Interno」と呼びました。さらにツッカールにツ続いて、ジョヴァンニ・パオロ・ロマンツォが『絵画聖堂のイデア』という著作でネオプラトニズム的方向性を帯びた芸術理論を提示します。このロマンツォの著作は、フィチーノがプラトンの『饗宴』の注釈として行った演説での美に関する部分を引き延ばしたものだといわれます。

プラトンと造形芸術

このようにマニエリスム期においては、完全に芸術理論を支えるものとなったプラトンのイデアですが、そもそものはじめからプラトン自身がイデアを造形芸術の美学を支えるものとして位置づけたかというと、まったくそうではなかったのです。

プラトンが、いかなる時代にも通用するやり方で美の形而上学的意味と価値を基礎づけたというのはたしかにその通りだし、造形芸術の美学にとってもまた、彼のイデア論はますます大きな意義を担うようになってきた。しかし、彼自身の考え方という点から見れば、プラトンはけっして造形芸術に対する公正な審判者ではありえなかった。
エルヴィン・パノフスキー『イデア―美と芸術の理論のために』

パノフスキーは、プラトンの哲学は「芸術に敵対するとは言わないまでも、芸術に疎遠なものと呼ばれるにふさわしいものであった」といいます。その「芸術に疎遠なもの」であったはずのプラトンの思想が、マニエリスム期には芸術の形而上学的意味を基礎づけるものとして認められるようになった。そうなるためにはプラトンの思想の読み替えが必要です。

古代~中世におけるプラトンのイデアの変転

事実、プラトンのイデアが、古代、中世、ルネサンス、マニエリスムと時代を経ながら、様々に姿を変えていく様子をパノフスキーは『イデア―美と芸術の理論のために』で描いています。

それによれば、まずプラトンにおいては「人間の内的な眼差しを感覚的な像に引きとどめ、イデア界を観照することを妨げるもの」とされ攻撃の対象ともなった芸術が、古代のネオプラトニズムを創始したプロティノスの段階ですでに「人間の内的な眼差しをいつも新たに感覚的な像のうえへとさまよいださせ、イデア界への視野を開きながらも、同時にそれを覆い隠してしまうという悲劇的な運命をもつもの」として芸術から身を守ろうとする対象に変化します。
古代のネオプラトニズムにおける美学観では「美の現れはすべて、より上位の美の現れの不十分な象徴にすぎない」とされ、目に見える美は、目に見えない美の反映であり、目に見えないさらに上の絶対的な美の反映と考えられ、自然を模倣するだけの芸術家の地位は重視されません。

さらに中世においてはプラトンのイデアは形而上学的な真理から、キリスト教の影響を受けた神学的な神の知性へと変化します。アリストテレスの影響を受けた中世のスコラ哲学においては、芸術家は「技術者たる神」「画家たる神」と喩えられますが、それは芸術に名誉を授けるためではなく、神の精神の本質や働きを理解しやすくするためのものでした。中世的思考においては芸術そのものは独自性を与えられず、フランセス・A・イエイツが『記憶術』書評)で、

スコラ哲学の時代は、知識増大の時代であった。それはまた、<記憶>の時代でもある。この<記憶>の時代にあって、あらたな知識を記憶するためにあらたなイメージが必要とされた。キリスト教の教義や徳育において枠組みとなる主題自体は、この時代になっても、さほど大きく変化したわけではない。しかし、その細部は、複雑さを増すこととなった。
フランセス・A・イエイツ『記憶術』

と書いた意味での、知識を記憶するためのイメージ、特に神学的な知識を記憶し、民衆へと伝えるためのイメージとして、芸術が用いられたのです。

主観と客観の発見

こうした変遷を経ながら、ルネサンスの時代を迎えます。先にもみたとおり、ルネサンス期は、中世では忘れられていたネオプラトニズムの思想が復活した時代ですが、それはすぐに芸術に影響を与えることはありませんでした。

むしろ、ルネサンス期の芸術論が強調したのは「芸術の課題は現実の直接的な模倣である」ということでした。
これはまさに古代においては自明のことであり、それゆえにプラトンが芸術をイデアから切り離そうとした要因でもありました。ところが、その自明なことがネオプラトニズムによって根絶やしにされ、中世においてはほぼ無視された状態になります。
その古代においては自明であった「現実の直接的な模倣」としての芸術、そのために自然観照を重視するということを1000年の隔たりを経て復興させようとしたのがルネサンスです。

ところが、それゆえにルネサンスは中世には縁がなかった問題に答えなければならなくなります。

かつての問いは、人間はどのようにして芸術作品を造るのか、というものであった。これに対して、いまやそれとはまったく別の、中世にはまるで縁のなかった問いが立てられる。すなわち、自然に立ち向かうことが必要になったとき、それを上手にやり遂げるためには、人間には何ができなくてはならないのか。とりわけ、何を知らなくてはならないのか。
エルヴィン・パノフスキー『イデア―美と芸術の理論のために』

自然に立ち向かう人間に必要なこと。それに対してルネサンスの芸術理論が出した答えこそ、遠近法であり、数学的な比例や均整といったものだったのです。

遠近法は、描かれる自然と描く画家のあいだの距離を明らかにしました。遠近法の構図のなかで、自然と芸術家は、客観と主観の関係となる。遠近法は芸術家の内的な世界にあった客観と主観の関係を、外的世界に反映するための方法だったのです。
ルネサンスは主観と客観を、そして、それを目に見える形で表現する方法を発見したのです。

主観と客観の裂け目の発見

しかし、マニエリスムはこのルネサンスの遠近法的規則に反抗する。
この反抗は、やはりルネサンス期の思想家であったジョルダーノ・ブルーノの思想とも関連します。

16世紀と17世紀の言い方では、イデアは「可知的対象の完全な認識」と呼ばれることになるが、そうしたものを自分自身の力で手に入れることこそが、芸術家の権利でもあれば、また義務でもあるのである。ただ芸術家のみが規則の創造者なのであり、真の規則というものは、およそ真の芸術家が存在するかぎりにおいて、そしてその数だけ存在するという、ほとんどカントを思わせるようなジョルダーノ・ブルーノの発言は、イデア論と関係づけることによってのみ十分に理解されうるだろう。
エルヴィン・パノフスキー『イデア―美と芸術の理論のために』

マニエリスムの芸術家たちが遠近法という規則に反抗し、真の芸術家であるためには、自らが規則の創造者である必要がここに生まれました。と、同時に、その自ら生み出した規則を正当化する必要が生じたのです。

ここにツッカーリやロマンツォのような芸術理論が必要とされる契機があったのです。
芸術理論は「芸術的表現はいかにして可能なのか」に答えなくてはいけない。この問いに答えるために「芸術作品のうちに可視化される内的イデアを、その由来と妥当性について吟味し、確固たるものとする」ことが求められました。
ツッカーリは、プラトンのイデアに言及しつつ、それを芸術家の精神の内にある「内的構図 Disengo Interno」と対応させました。この内的構図は、神が天使に植えつけ、さらに天使たちが自らのうちに抱いた像を芸術家に植えつけることで、生じるものとされます。
ロマンツォにおいては、さらにネオプラトニズムの関係が強化され、イデアと芸術作品の関係は次のように考えられるようになります。

神の光線はまず第一に天使のなかに注がれ、天使の意識のなかに、純粋な原像もしくはイデアとして天球の直観を生みだす。次いで(人間の)魂のなかに注がれ、そこに理性と思惟を生みだす。そして最後に物質界に注がれ、そこで像と携帯として現象するのである。
エルヴィン・パノフスキー『イデア―美と芸術の理論のために』

ルネサンス・ネオプラトニズムの哲学においては、宇宙は神に相当する超越的な「一者」から流出する「知性」、さらにそこから出てくる「世界霊魂」と個々の人間の「霊魂」があり、その最下部に「物質」があると考えられます。そうであるゆえに神である「一者」と個々の人間の「霊魂」は本質的につながりをもつものとされます。この関係がツッカーリやロマンツォにおいては、芸術理論として確立される。

実はここにこそ、マニエリスムの精神的態度の新しさがあるのです。
ルネサンスにおいては遠近法という規則によって問われることのなかった主観と客観の関係の正当性が、はじめてマニエリスムにおいては問われたのです。主観と客観には裂け目があり、それは芸術家が真の規則の創造者たることで、主観と客観のあいだの裂け目を規則によって埋めなくてはいけないということが自覚されたのです。
マニエリスムの一見するとデタラメとも思える蛇状曲線を多用した表現の背後にはこうした現代にも通じる精神的態度がある。この世界=客観と規則の創造者=主観たる人間を結ぶことの必要性を自覚した精神的態度にこそ、「デザインの誕生」の瞬間を見ることができるのではないでしょうか。

このあたりは次回以降はさらに詳しく見ていきたいと思います。

シリーズ「デザインの誕生」
  1. ディゼーニョ・インテルノ
  2. ルネサンスの背景
  3. 主観と客観の裂け目の発見
  4. サブジェクトからプロジェクトへ
  5. コトをモノにした時代


 

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