ルネサンスの背景(デザインの誕生2)

「デザインの誕生」、デザインの起源、発生を考えてみようという試み。
前回の「ディゼーニョ・インテルノ(デザインの誕生1)」では、1607年にマニエリストのフェデリコ・ツッカーリが「絵画、彫刻、建築のイデア」で提示した、「内的構図 Disengo Interno」という概念に着目してみました。

Zuccaro selfport.jpg
"Zuccaro selfport" by フェデリコ・ツッカリ - La bildo estas kopiita de wikipedia:en. La originala priskribo estas: Federigo Zuccaro, self-portrait, 1588.
Image from [1].
Original in the Uffizi Gallery, Florence.. Licensed under パブリック・ドメイン via ウィキメディア・コモンズ.


マニエリスムの芸術家たちが、盛期ルネサンスの芸術家たちの数学的技法による自然の模倣を放棄し、自らの「心の内面でとらえられた世界のイメージ」である「内的構図 Disengo Interno」を紙の上に投影させはじめたとき、何かが変わり始めたのではないかと僕は考えています。
神の創造を模倣することの範疇にあった芸術が、そこから離れ、自己の内面の構図ー「イデア的概念」の投影に意味をもたせはじめたとき、自身の内面にあるヴィジョンを外界に投影し、あるべき世界を実現するというデザインへの端緒がみえはじめているのではないかと思うのです。
そのとき、「創造」「発明」が神の行為だけを指す言葉としてだけではなく、人間の行為も指す言葉になりはじめたのではないか。

実はマニエリスムに先行するルネサンスに、すでにその萌芽がみてとれます。

ルネサンス以前は、芸術理論は実践の中から生まれた。ところがルネサンスでは、芸術の実践が理論から生まれたということ、そして中世の職人ー建築家、職人ー彫刻家と違って、ルネサンスの芸術家は多くの場合、理論科学者であり、自分の美の世界に統一を、比率体系の閉じた世界を押し被せようとしたことである。

ルネサンスは、中世ゴシックの抱えた二律背反的な傾向ー理想主義と自然主義ーを解決するために、数学的な技法(比率や遠近法)を使った美による統一を目指しました。
エルヴィン・パノフスキーは『イデア―美と芸術の理論のために』のなかで、中世の模倣の手法を「自然が創造したものを模倣するのではなく、自然が創造を行うその仕方で、一定の手段で一定の目的を達成したり、一定の形相を一定の質量のなかに実現させつつ、制作を行う」と評しましたが、ルネサンスの芸術家がこの「自然が創造を行うその仕方」を数学的な比率やシンメトリーとして捉え、中世の模倣を拡張し、それが果たせなかった統一性をもった美を表現できるようになったのだといえます。

このルネサンスの時点では確かに、模倣という範囲には収まっています。
しかし、実践と理論の関係が逆転しているところに、ツッカーリが〈外的構図〉としての芸術作品それ自体よりも、〈内的構図〉としての芸術家の内なるイメージ=イデアを重視したことにつながる転換を同時にみることができる。

では、何がルネサンスの芸術家にこうした変化を促したのか。
中世ゴシックの理想主義と自然主語のたがいに背反的な傾向のあいだを統一させる方向に向かわせるのに、どんな背景があったのか。

ルネサンスの背景

ルネサンスの思想家や芸術家が活動を開始した15世紀の初頭からマニエリスムの芸術家が活動した17世紀の前半にかけてはヨーロッパ世界に大きな混乱が生じていた時期でした。

ルネッサンスの芸術家たちが自己救済につとめ、その問題性をなんとか解決しようとしている間に、天文学と地理学の次元において世界はますます大きくなる一方、信仰内容は脈絡を失い、政治的社会的秩序は腐蝕され、一方では新しい諸王国が興され、初期資本主義経済が最初の危機に見舞われつつあった。

地理学の次元では、1492年のコロンブスのアメリカ発見、1498年のバスコ・ダ・ガマのインド航路発見、1522年のマゼランの世界周航達成と世界は確実に大きくなり、天文学の次元でも1543年のコペルニクスの地動説(『天体の回転について』)を皮切りに、1609年のケプラーの惑星の楕円軌道の発見(『火星の運動について』)とガリレオの望遠鏡による天体観測(月面クレーター、木星の衛星の発見)などの発見が相次ぎ、宇宙は無限のものであるという考えが強くなります。

さらに、中国の活版印刷術が1445年にヨーロッパに伝わった5年後の1450年にはグーテンベルクが活版印刷術を発明。1455年には有名な42行聖書を印刷したり、1516年にイギリスで郵便制度が確立されたこともあり、情報の伝播範囲の広がりや速度の向上といった情報革命も起こります。

こうした状況で、宗教も、政治も、経済も大きく変化する。それがルネサンスの思想や芸術が中世から大転換を興した背景にあるといわれます。

こうした背景を理解するために、以下では、宗教、政治、経済それぞれの歴史の流れをざっくりと見ていくことにします。

宗教改革と反宗教改革

宗教においては、1401年に初期の宗教改革といわれるフスの宗教改革がボヘミアで起こっています。やがてフス派と呼ばれる支持者を生み、後の17世紀初頭に世界初の子供のための絵入り子供百科事典『世界図絵』を生んだコメニウスもボヘミア出身のフス派の人物ですが、フス自身は1413年のコンスタンツ宗教会議で有罪な判決を受け、処刑されています。1419年にはフス派がボヘミアで蜂起しフス戦争が起こるなど、その後もボヘミアではフス派によるカトリック勢力への抵抗運動が起こっています。そうした宗教改革の運動がボヘミアでは、前回紹介したルドルフ2世の時代まで続き、30年戦争のきっかけにもなる。

異端審問や魔女狩りが盛んに行われたのもこの時代です。
100年戦争でフランスを勝利に導いたとされるジャンヌ・ダルクが1431年に異端とされ処刑されていますが、1484年にインノケンティウス8世が「スンミス・デジデランテス」により魔女狩りを推進すると、16世紀には魔女狩りが最盛期を迎えます。
また、フィレンツェの腐敗ぶりやメディチ家による実質的な独裁体制を批判し、さらには教皇をも批判したドメニコ会の修道士、サヴォナローラが、贅沢品として工芸品や美術品を広場に集めて焼却するという「虚栄の焼却」を行ったのが1497年、翌年に処刑されるなどといった宗教的な混乱が相次いで起こります。

そうした中、16世紀に入ると、1509年にエラスムスが教会の俗化や修道院の偽善を諷刺、1517年にはルターが「95ヶ条の意見書」、1534年にはドイツ語聖書を出版するなど、宗教改革の動きは活発化します。この1534年は、イエズス会が創立したり、英国国教会が独立するなど、キリスト教にとっては激動の年です。

そして、1541年にはついにカルヴァンがジュネーブで宗教改革を開始する。
1562年から1598年には、フランスでカトリックとプロテスタントが戦ったユグノー戦争が起こり、1589年にはロシア正教の独立が行われます。

すこし話がズレますが、こうした動きは日本にも影響を与えていて、1549年にはイエズス会のザビエルが鹿児島で布教活動を行い、1569年にはおなじイエズス会のフロイスが織田信長に引見しています。
ちょうどマニエリスムの時代です。ミケランジェロが「最後の審判」を描いたのが1541年、アンチンボルドの連作「四季」が1573年です。安土城障壁画を描いたのが1576年。利休が信長の茶道になったのが1585年といえば、日本との関連も伝わるでしょうか。

戦争の時代、そして、絶対主義へ

キリスト教が混乱していた時代、政治の世界も大きく混乱します。

1453年には、古代ローマ帝国の流れをくむ東ローマ帝国がオスマン帝国の侵略により滅亡します。この東ローマ帝国の滅亡により、東ローマからイタリアに亡命してきた多くの知識人が携えてきた古代ギリシャ・ローマの書物や知識がルネサンスの勃興につながる古代文化研究を活発させたともいわれています。

また、この時代はとにかく戦争の絶えない時代でした。
フランスとイギリスの間の100年戦争も1453年まで続きます。718年から続いていたキリスト教国によるイベリア半島の再征服活動、レコンキスタは1492年のグラナダ陥落で完了するまで続きました。
1527年には神聖ローマ皇帝カール5世の軍勢がイタリアに侵攻し、教皇領のローマで殺戮、破壊、強奪、強姦などを行ったローマ劫掠(Sacco di Roma)が起きます。これにより、ルネサンス文化の中心だったローマは壊滅。多くの芸術家、文化人が殺害され、1450年代から続いた盛期ルネサンスが終わりを告げました。

また、この時代、メディチ家が1434年から94年までフィレンチェを、ハプスブルク家が1438年から1740年まで神聖ローマ帝国を支配するなどの動きも見られます。

こうした混乱とともに、スペインやイギリスでは絶対王政への流れも見られます。
1556年にはスペインでフェリペ2世が、翌年にはエリザベス女王が即位しています。
フェリペ2世は1556年にイタリアとネーデルランドを領有。1580年からはポルトガル国王も兼ねています。1568年にはネーデルランドが独立戦争を起こし、81年に独立を果たします。
一方のイギリスでは、1560年に貨幣が統一され、65年にはロンドン取引所が設立されるなど、資本主義への動きがみられます。1576年に最初の公衆劇場「劇場座」が、99年には有名な「地球座」が建てられ隆盛をみたシェークスピアに代表されるエリザベス朝演劇はこうした背景に誕生したのです。

先にあげたユグノー戦争は、このカトリックのスペイン王フェリペ2世とプロテスタントのイングランド女王エリザベス1世との代理戦争の性格も有しているといわれます。1588年には、この両者はスペインの無敵艦隊がイギリスに敗れたことで知られるアルマダの海戦で激突してもいます。

1592年が秀吉による最初の朝鮮出兵(文禄の役)ですから、ここでも西洋の絶対王政と帝国主義的な海外進出が、日本の信長・秀吉による天下統一から海外出兵とパラレルな出来事であることは確認しておいてもよいでしょう。

初期資本主義

こうした政治的な動きは、ひとつには資本主義的な面から植民地の拡大を目指した各国の帝国主義的政策と大きく関連したものであることは見逃すことはできないでしょう。

まず、いち早くレコンキスタを達成したポルトガルは、1498年にバスコ・ダ・ガマが、ヨーロッパ人としてはじめてインドのカルカッタに到着すると、翌年、香辛料をポルトガルに持ち帰ります。その後、ガマは遠征艦隊を率いてイスラム勢力と衝突をくり返しながら、インドとの直接交易を獲得するに至ります。
1510年にはインドのゴアを占領。東洋貿易の拠点とし、順調にマレー半島・セイロン島にも進出。1543年には日本の種子島に漂着して鉄砲を伝えています。1557年にはマカオに要塞を築いて極東の拠点としました。

ポルトガルに出遅れたスペインは、1494年にポルトガルの間にトルデシリャス条約を結び、「新大陸」における征服の優先権を得ます。コロンブスが新大陸を発見して2年後の出来事です。これにより、スペインはマヤ文明、アステカ文明、インカ文明を破壊して金や銀を奪い、莫大な富を得ます。
1517年にはパナマを征服。1521年にはメキシコのテノチティトランを制圧しメキシコシティーをつくります。これによりスペインはメキシコの銀を獲得し、中国を中心に銀本位制であったアジアの市場での貿易を進めることになる。
こうして力をつけるなかで、先にも書いたように1580年からはフェイリペ2世がポルトガル国王も兼ねると、旧来のポルトガルの植民地も手に入れるようになります。

一方、こうしたカトリック勢力のスペインに遅れたイギリスは、1600年に東インド会社を設立してアジアに進出。ジャワ島東部のバンテンに拠点を置いて香辛料貿易への食い込みを図ります。さらにアジアでは、マレー半島のパタニ王国やタイのアユタヤ、日本の平戸に商館を置いて交易を行います。しかし、これらは1602年におなじく東インド会社を設立したオランダとの競合に敗れて敗退します。

そのオランダは、ポルトガルからも香料貿易を奪うなどして、次第に植民地を拡大し、黄金時代を迎えます。日本が江戸期に唯一交易を許した国がこのオランダです。1606年生まれのレンブラント、1632年生まれのフェルメールはいずれもこの黄金期のオランダの画家です。

問題の解決

こうした混乱のなか、マニエリスムを代表するイギリスの詩人であるジョン・ダンは、「新しい哲学はすべてを疑わせる」と歌います。

新しい哲学はすべてを疑わせる。
火の元素はすっかり消えはてた。
太陽は居場所を失い、地球もまた同様、誰の知恵も
それをどこに探すべきかを示してはくれない。
ジョン・ダン『世界の解剖』
(M.H. ニコルソン円環の破壊―17世紀英詩と「新科学」より)

中世において絶対的な権力をもっていた教会はその地位を徐々に失い、世俗の権力がそれぞれその地位をめぐって争うようになりました。さらに追い討ちをかけるように、地動説やそれに続く天文学的発見が既存のキリスト教的世界観を揺るがします。
一方で、自らの覇権の拡大を狙う諸国は、地理学的に広がった世界から香辛料や金・銀をはじめとする様々な物資を得るため、植民地の開拓にいそしむ。そんな世界を印刷術によって自由度を高めた情報が駆け巡り、貨幣制度や保険、株など、資本主義のツールが整備されました。

現代の僕らが勘違いしてはならないのは、そんな時代にあっても、ルネサンス期の人びとは決して信仰を、神を疑ってはいなかったということです。教会は疑っても、神そのものを失ったわけでもなく、信仰心を失ったのでもない。ただ、信仰の内容がここまで挙げたような状況もあって不確かになっただけです。

16世紀の初頭にもまた、強い緊張をもたらすことになるある二律背反が生じているが、しかし、この二律背反は主体と歴史のそれではなくて、主体と自然のそれである。戦争もまた、経済的、人間―心理学的な破局というより、むしろ自然の出来事もしくは宗教的―形而上的な〈神の裁き〉として受けとられるのである。

そう。16世紀初頭のマニエリスムですら、こうなのです。それに先行するルネサンス期の芸術家であればなおさらです。
この〈神の裁き〉としての破局の認識において、ルネサンスの芸術家たちは失われつつあった自らの信仰をどうにか救済し、再統一を図ろうとする。それがルネサンスの活動が生まれた根源にあったものの1つといってよいでしょう。

そこで彼らが統一のために用いたのが古代のヘレニズム文化であり、それに先行した古代オリエントの文化のなかのヘルメス・トリスメギストスにあやかって世界の神秘を味わい尽くそうとするヘルメス主義であり、1413年に写本が発見された古代ローマの建築家ウィトルウィウスの建築書に記された数学的手法であり、それらを飲み込んだネオプラトニズムでした。

1463年に、マルシリオ・フィチーノはプラトン全著作の翻訳を開始し、翌年にはヘルメス文書「ポイマンドレス」のラテン語翻訳を完成させています。さらにその弟子のピコ・デラ・ミランドラが1486年に『人間の尊厳について』で人間は小さな宇宙であり自由意志を持っていることを主張。1527年にハインリヒ・コルネリウス・アグリッパが『隠秘哲学について』を、そして、1582年には「記憶術/フランセス・A・イエイツ」で取り上げたジョルダーノ・ブルーノが『イデアの影』をそれぞれ著し、ルネサンスの思想におけるヘブライ主義、ネオプラトニズムを強化します。

このあたりを次回引き続き、掘り下げてみようと思います。

シリーズ「デザインの誕生」
  1. ディゼーニョ・インテルノ
  2. ルネサンスの背景
  3. 主観と客観の裂け目の発見
  4. サブジェクトからプロジェクトへ
  5. コトをモノにした時代


  

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