ディゼーニョ・インテルノ(デザインの誕生1)

僕の最近の関心事の1つは「デザインの誕生」です。

昨日、僕が解説を書かせてもらった、ヘンリー・ペトロスキーの『フォークの歯はなぜ四本になったか 実用品の進化論』書評)が出版されましたが、そこで丁寧に描かれた近代のデザイン・エンジニアリングによるイノベーションの歴史やそのメカニズムよりも、僕自身はそもそもイノベーション=デザインということが歴史上、新しい観念として誕生した瞬間にこそ興味をもっています。

現代の僕らにとってはその存在が当たり前になってしまっているデザインというものが、ほかの多くの発明品同様に歴史上のある時点から観念として浮上し、利用可能になったものであるということ自体をきちんと整理、理解してみたいと思っています。
僕のなかには「生産力よりも消費力」で書いたような、デザインが未来を提示する、つくるということ自体が機能しづらくなっているのではないかという危機感があって、その危機を乗り越えるためには、一度、デザインの起源に立ち返らないといけないという思いが強くある。そのデザインの起源とは、いわゆるモダンデザインのお作法がバウハウスなどの活動によって整えられてきた第1次世界大戦後の時代ではなくて、もっとずっと歴史を遡ったルネサンス期のヨーロッパではないかと思うのです。

しばらく、そんなことを続けて書いてみようと思うのですが、まずは思考の基点を、高山宏さんの『表象の芸術工学』書評)のなかのこんな記述、

いずれにしろOEDによると、英語としてのdesignが出てくるのは1593年が最初です。「絵」の用法では1638年が最初。要するにその界隈ですね。そしてぴったりその時期の1607年、「ディゼーニョ・インテルノ disegno interno」という言葉が、マニエリストのフェデリコ・ツッカーリ(1542-1609)の「絵画、彫刻、建築のイデア」というエッセーの中に登場しました。今まで長い間、ヨーロッパのデザインは基本的に外界にあるものをたくみに写す技術、ミメーシスの技法でやってきた。ところが1607年の時点で、英語にすると「インナー・デザイン」、この講義だったら「インテリア・デザイン」としかいいようのないイタリア語のディゼーニョ・インテルノ、「内側にあるもののデザイン化」という意味が出てきた。

においてみようか、と。

内側から描く

さて、上記の高山さんの本からの引用には、16世紀後半から17世紀初頭にかけて、designという語が英語として登場してくると述べられています。あわせて1607年という年が、フェデリコ・ツッカーリというイタリアのマニエリスム画家、建築家の「絵画、彫刻、建築のイデア」という論文のなかの「ディゼーニョ・インテルノ disegno interno」という聞き慣れないことばとともに記されています。
まずはここから考えてみたい。

この「ディゼーニョ・インテルノ disegno interno」ということばは先日紹介したワイリー・サイファーの『ルネサンス様式の四段階―1400年~1700年における文学・美術の変貌』書評)にも登場します。

パルミジァニーノは内面のイメージ―「ディセーニョ・インテルノ」―に視線を注いでいるように見え、外在の現実よりも内側から絵を描く。」

パルミジャニーノ(1503-1540)も、フェデリコ・ツッカーリ同様、マニエリスムの画家として知られますが、ツッカーリが生まれる2年前に夭折した初期マニエリストです。凸面鏡のうえに手だけが異常に巨大化して写った自身を描いた「凸面鏡の自画像」や「首の長い聖母」といった作品で知られます。

作品をみてもわかりますが、見たままを描いたという印象はパルミジャニーノの絵には見受けられません。「凸面鏡の自画像」では先にも書いたとおり、ペンを持つ右手が誇大化して描かれていますし、「首の長い聖母」では聖母も赤子であるキリストも異様に体が長く、蛇のようにうねった形で描かれています。蛇のようにうねった形「フィグーラ・セルペンティナータ」は、このパルミジャニーノだけでなく、ほかのマニエリスム画家にみられる特徴で、その不自然極まりない動きは人体にも、雲や道や建物にさえ見られ、マニエリストの描く絵の画面を不安で満たします。

さらにその不安な特徴は絵だけでなく、文学にも影響を及ぼし、とりわけハムレットの不安定さに顕著に表れているとされます。

ハムレットは自分の置かれた状況に異常に過敏な反応を示し、そのため、芝居は彼の意識という主観的焦点を持つ劇場で演ぜられることになる。デンマークという外在世界だけでは十分に演じることができないのである。これと同じように、マニエリスムの画家も〈内的構図(ディセーニョ・インテルノ)〉というある種の主観的焦点を持つことによって、「内側から描く」のである。

ハムレットはその劇中の舞台であるデンマークという地理的な環境にはおさまりきらず、彼を演じるには「彼の意識という主観的焦点を持つ劇場」を必要とする。サイファーはマニエリスムの画家もそれとおなじように見たままの外的な世界だけではなく、主観的焦点をもって「内側から描く」のだといっています。それがツッカーリがはじめに理論化した内的構図―Disengo Interno―と捉えています。

内的構図―Disengo Interno

もうすこし、このツッカーリの内的構図―Disengo Interno―をみてみましょう。

グスタフ・ルネ・ホッケは『迷宮としての世界―マニエリスム美術』のなかで、ツッカーリのことばも引用しながら内的構図をこのように示しています。

最初に〈わたしたちの精神にある綺想体〉が生まれる、とツッカーリはいう。これを要するに、ある〈イデア的概念〉、ある〈内的構図〉Disengo Interno である。かくしてつぎにわたしたちはこれを現実化し、〈外的構図〉Disegno Esterno へともちこむことに成功する。〈内的構図〉は、さながら同時に視るという観念でも対象でもあるような一個の鏡にもくらべられる。というのもプラトンのさまざまなイデアは、神が〈神自身の鏡〉であるのにひきかえ、〈神の内的構図〉であるのだから。神は〈自然の〉事物を創造し、芸術家は〈人工の〉事物を創造する。

ここでプラトンの「イデア」に言及がされていますが、ルネサンス期の思想の根幹には、ネオプラトニズムがあり、マルシリオ・フィチーノ(1433-1499)やその弟子にあたるピコ・デラ・ミランドラ(1463-1494)といったイタリア・ルネサンス期の思想家によって、プラトニズムにヘブライ主義やカバラを盛り込む形で神秘主義的にまとめられています。これに関しては、以降でもうすこし詳しく紹介することにします。

マニエリストに限らず、ルネサンス期の芸術家は、このプラトンの、個別の事物の背後にはその本質であるイデアが存在するという考え方を自身の表現であらわします。ツッカーリはこのイデアを綺想体とも内的構図とも言っているのであり、それを外的構図としての現実の絵の表現へと落とし込むことを画家や彫刻家、建築家の仕事だと捉えているのです。

表象のミメーシスからの開放

ただし、このイデアの表出としての芸術という捉え方も、マニエリスムとそれに先行する盛期ルネサンスにおいてはすこし意味合いが異なります。
それをマリオ・プラーツは『官能の庭』のなかで次のように示しています。

ミメーシスの概念、つまりルネサンスに支配的な自然の模倣として芸術の概念は、実際には「止まれ、汝は美しい」なるポーズとして固定された静止的な世界を前提としていたが、いまや16世紀になると、心の内面でとらえられた世界のイメージは静止的どころか絶えまない変転にほかならない、とする理念が生み出される。まさにこれはウェルトゥムヌスの領国である。そこから芸術家にふさわしいのは、単なる自然の模倣から開放された表象としての、すなわち自律的な噴出によって紙の上に投影された創意としての「内的ディセーニョ」であるとみなされるようになった。
マリオ・プラーツ『官能の庭』

初期ルネサンスから盛期ルネサンスの芸術家たちは、個別の事物の背後にある本質としてのイデアを描くのに、数学的手法である比例(プロポーション)や遠近法を用いていました。自然の本質として数学的なものを据える考え方こそがルネサンス期のネオプラトニズムの影響を大きく受けたものですが、それはあくまで中世までの自然の模倣という範疇におさまるものでもありました。
ところが、マニエリスムの芸術家たちは、盛期ルネサンスの画家や彫刻家、建築家が重視した比例や遠近法などの数学的手法を拒否し、身体を不自然に蛇状に伸ばし歪ませ、この世のものではない動きを画面に与え、不安定なほど空間を伸ばして中心を空虚にした構図を採用しました。それはもはや自然の模倣ではなく、芸術家の主観的内面の「内的ディセーニョ」としてのイデアだったのです。

「絵は手で描くのではない、頭で描くのだ」といった、初期マニエリスムの色濃い晩年のミケランジェロ(1554年没)のことばが思い浮かびます。

ルドルフ2世のプラハ

ちなみに上の引用で「ウェルトゥムヌスの領国」と書かれたウェルトゥムヌスとは神聖ローマ帝国皇帝であり、ボヘミア王であったルドルフ2世(1552-1612)のことです(元は古代ローマの神ですが、ジュゼッペ・アルチンボルドが描いた『ウェルトゥムヌスに扮したルドルフ2世』をプラーツは想起しています)。

政治的には無能といわれたルドルフ2世は、逆に文化人としては非常に優れた面をもっており、芸術や学問を保護したことで、マニエリスム芸術を考える上では非常に重要なジュゼッペ・アルチンボルドのような画家や、天文学者のティコ・ブラーエやヨハネス・ケプラー、さらにはイギリス・ルネサンスの最重要人物のひとりであり、薔薇十字運動にも多大なる影響を与えた哲学者にして魔術師、数学者であるジョン・ディーを、帝国首都プラハに呼び寄せました。このルドルフ2世によって、ボヘミアの首都プラハはマニエリスムの重要拠点ともなったのです。

ルドルフ2世がボヘミアにおける信仰の自由も認めたことで、プラハはプロテスタントなどの宗教革命勢力にとっても楽園的な都市として栄えましたが、その政策が不徹底だったこともあり、その死後、神聖ローマ帝国内において三十年戦争が勃発する一因を作り上げてしまったことは、先日紹介したフランセス・A・イエイツの『薔薇十字の覚醒―隠されたヨーロッパ精神史』書評)に詳しいのですが、このあたりも次回以降もうすこし取り上げていこうか、と。

というわけで、続きます

シリーズ「デザインの誕生」
  1. ディゼーニョ・インテルノ
  2. ルネサンスの背景
  3. 主観と客観の裂け目の発見
  4. サブジェクトからプロジェクトへ
  5. コトをモノにした時代


   

関連エントリー

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック