古代日本の月信仰と再生思想/三浦茂久

さてさて怒涛の年明け書評エントリー5連発の最後を飾るのは、三浦茂久さんの『古代日本の月信仰と再生思想』

この本はまさに最後を飾るのにうってつけなヤバい一冊。
なにしろこの国がある意味ずっと信じてきた日の国としての日本の太陽信仰を根底からくつがえす、日本は古代、月信仰であったという考えを明らかにしている一冊なんですから。
本居宣長や契沖のような江戸期の国学者も、柳田國男や折口信夫のような民俗学者も、土橋寛のような国文学者も、誰も根幹からは疑うことがなかった太陽信仰の日本というものを、月信仰の日本に全面的に書き換える試みを展開しているのだからヤバい。もちろん、「ヤバい」というのは危ないという意味ではまったくなく、すばらしい!という賞賛の意味でヤバいんです。

アマテラスはかつては月神であった

この本のドラマティックな面での仮説は、「アマテラスはかつては月神であった」ということでしょう。

古来より皇統は日神の子孫であると強固に信奉されてきて、深刻な疑問に曝されずにきた。戦後の『記紀』の自由な見直しにおいても、伊勢神宮の成立の時期については多くの議論が重ねられて後代に引き下げられたが、皇祖神のアマテラスが日神であることについては些かも疑問とされて来なかった。それどころか、多くの識者によって、古い皇祖神タカミムスヒも尾張氏の始祖ホノアカリも伊勢のサルタヒコなどもある種の太陽神であるとされ、アマテラスを取り巻く太陽信仰は強化されてきた。それが完全に覆ったのである。

いや、アマテラスどころではなく、これまで太陽神として捉えられることが多かった、タカミムスヒもサルタヒコも月神であっただろうと著者は明らかにします。

著者の方法は、『記紀』(宣長以降、ある意味伝統となった『古事記』中心の読みではなく、『日本書紀』を中心に据えた読み)と、さらに編纂は『記紀』より遅れるが所収された歌そのものは『記紀』の時代より前のものとなる『万葉集』などを読みながら、従来は未詳とされることが多かった枕詞などに月信仰のおもかげを読み取ることで、古代の月信仰を浮かびあがらせるというものです。
従来、識者が太陽信仰をあまりに頑固な固定観念としてもってしまったがゆえに見落としていた月信仰の名残を、それらの歌や記述からしっかりと読み解く直観はすごいというほかありません。

特に「日」という文字で表される「カ」、二日、三日などの「カ」を元は月を示すものだと示すものだと述べ、天の香具山なども月の山だとするあたりは、固定観念に溺れることなく丁寧に解釈しているあたりがすごい。

これはぜひとも実際に手にとって読んでほしい。
「アマテラスはかつては月神であった」という結論じみたものより、記述された古語から古代信仰のおもかげを浮かび上がらせる手腕こそ、本書の一番の読み応えのある部分なので。

月神、棚機女

そもそも僕が本書を手に取ったのは、アマテラス、スサノヲとならび「三柱の貴子」とされながら、なぜか影の薄い月読命(ツクヨミノミコト)はいったいどんな神なのだろうかということが気になっていたからです。
先日紹介した「遊ぶ日本―神あそぶゆえ人あそぶ/高橋睦郎」でも、遊ぶ神としてのスサノヲが主役として踊っているのをみることはできても、ツクヨミはちっとも出てこない。これくらい、影が薄いと逆に何か隠されてるんだなと思うわけです。そうでないと、アマテラスとスサノヲのあいだに置くはずがないのですから。

そんな風に気になっていたので、『古代日本の月信仰と再生思想』というタイトルをみて、この本を読めば、そのヒントがもらえるだろうと思ったのですが、実際読んでみてそれ以上に得るものがありました。

「それ以上」というのが、もうひとつ気になっていたことのひとつである「棚機女(たなばたつめ)」の存在についても教えてもらうことが多かったからです。
特に気になっていたのは、棚機女の織り上げる機、布とは古代において何だったのか?という点。なんてったって布好きですから)ねw。それに「死者の書/折口信夫」で藤原の郎女がなぜ糸を紡ぎ、機を織り、織りあげた機を裁ち縫ひ絵具で色をつけるという作業を一心に行うのかも気になるし、なぜスサノヲが犯して高天原を追放されたきっかけとしての天つ罪が、アマテラスが神衣を織る機殿に天斑駒(あまのふちこま)を生剥にして投げ入れたことなのかも気になっていたわけです。さらに日本書紀では機を織っていたのも機織りの梭で体を傷つけてしまうのもアマテラス自身です。

こうした疑問にもヒントを与えてくれたのがこの本。これもどういうことかは実際に読んでほしいので「秘すれば花」ということに。

画期的な2冊との出会い

さて、この本、身体感覚で「論語」を読みなおす。/安田登で紹介した安田登さんの、これまた画期的な「論語」解釈をした『身体感覚で「論語」を読みなおす。―古代中国の文字から』といっしょに本屋で見つけて手に入れたんですが、ふだん、本に関してはほぼ「すごもり消費」人でAmazonでばかり買っている僕ですが、やっぱり本屋には行かないとダメだと実感しました。
絶版ながら、ずっと読みたくて探していたグスタフ・ルネ・ホッケの『迷宮としての世界』も先日松丸本舗でみつけて手に入れたのも、やっぱりリアルな本屋だから。Amazonのマーケットプレイスはなんとなく敬遠してしまうんですが、直接手にとって見れると値段はそこそこ高くてもそんなに躊躇なく買えました。
こういう予期せぬ出会いがあるのが、リアルの本屋の何よりの魅力です。

それにしても『身体感覚で「論語」を読みなおす。―古代中国の文字から』といい、この『古代日本の月信仰と再生思想』といい、買った3冊中2冊が大ヒットというのはラッキーだな、と(もう1冊は、松岡正剛さんの『連塾 方法日本II 侘び・数寄・余白 アートにひそむ負の想像力』なので、これはそんなに驚きはないはず)。
いやいや、リアルな書店の出会いもすごいですけど、こういう画期的な2冊がちゃんと登場するというのも、いまの時代の人文科学もなかなか捨てたもんじゃないなと思った次第です。



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この記事へのコメント

  • 三浦茂久

    『古代日本の月信仰と再生思想』を丁寧に読んでいただき、詳しい書評を載せていただきありがとうございました。取り急ぎお礼だけ申し上げます。

    なお、昨年8月『銅鐸の祭と倭国の文化』を作品社より出版いたしております。それには棚機についても詳しく述べておりますので、ご参照下されば幸いです。

    現在『古代枕詞の究明』(仮題)を執筆中で、今年中に小著を出版するよう努力中です。すでに老年ですが、認知症になる前になんとか間に合わせたいと念じております。
    2010年01月17日 21:20
  • tanahashi

    三浦さま、

    著者みずから、コメントいただけるなんて、大変うれしく思います。

    『古代日本の月信仰と再生思想』が非常におもしろかったので、
    すでに『銅鐸の祭と倭国の文化』も買わせていただきました。
    まだはじめのほうを読んだのみですが、こちらも非常に興味深いです。

    いまお書きになっている『古代枕詞の究明』もタイトルからして興味深いです。
    楽しみにしております。
    2010年01月18日 14:28

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