遊ぶ日本―神あそぶゆえ人あそぶ/高橋睦郎

ルネサンス様式の四段階―1400年~1700年における文学・美術の変貌/ワイリー・サイファー」、「フォークの歯はなぜ四本になったか 実用品の進化論/ヘンリー・ペトロスキー 」に続き、本年3冊目の書評。

今日、紹介するのは、高橋睦郎さんの『遊ぶ日本―神あそぶゆえ人あそぶ』
これは大傑作。
僕はこれを読んで、情報コンテンツがどんどん無料化していく時代において、なぜ「遊び」の要素をもった情報コンテンツのみが有料でいられるかだったり、ニンテンドーとソニーの差って「遊び」に対する姿勢からくるんだろうな、と思ったりしました。

遊び、大事です。
遊びがわかってないと、これからの時代、やばいなと思わせる一冊でした。

カミアソビ

この本は『神楽歌』のこんな一節からはじまります。

  汝(まし)も神ぞや 遊べ遊べ
  君も神ぞや 遊べ遊べ

古代日本における遊びは、ほかならぬ、こうした「カミアソビ」でした。
神のみが遊ぶのであり、人は神を通じてのみ遊ぶことができたと著者はいいます。

そのこと自体は、民俗学などに関心がある人なら、別段新しい話ではありません。
僕自身も、白川静さんや折口信夫さんの本を読んで知っていましたし、庭と日本人/上田篤では日本の庭がそもそも神と人が遊ぶ場としてつくられたものであること、江戸はネットワーク/田中優子では江戸期においても連歌などのサロンにおいては神棚が祀られ、だいぶ形式化していたとはいえ、カミアソビという要素がちゃんと残っていたことを知っています。
著者は、民衆による巨大な遊びだった幕末の「ええじゃないか」を最後に、明治期以降の日本からは遊びが失われたと見ています。

流浪する人びと

しかし、それ以前の日本においては、遊びとは常に神との遊びでした。

遊ぶ神神は維新のつい手前までは曲がりなりにも生きていた。すくなくとも形の上では、神神は遊び、人びとは神神を演じ、神神に倣うことで神神に近づこうとした。祭りごとも、政りごとも、戦いも、駆引きも、恋も、色事も、商いも、賭けごとも、習いごとも、慰みごとも、旅も、放浪も、学問も、詩歌文芸も、神神に近づくための遊びだった。遊びこそは維新が壊すまでのこの国を動かした力だった、といってもいいのではないか。

能や歌舞伎、人形浄瑠璃といった芸能、和歌や日記文学、俳諧連歌や狂句にいたる文学、茶や花、音曲、さらには遊里や賭博なども含んだ日本文化が、すべてカミアソビとして行われていました。
遊里の遊女や賭博師などが、役者や能楽師などとおなじく芸能民とされ、その芸能民はさらに木地師や鍛冶、鋳物師などとおなじくひろい意味での職能民でした。そのことは「無縁・公界・楽 日本中世の自由と平和/網野善彦」や「日本の歴史をよみなおす/網野善彦」などの網野善彦さんの著作を読むとよくわかります。

こうした広義の職能民は同時に定住をせず、各地を流浪、徘徊する人びとでもありました。それが定住化するようになったのは江戸期に入ってからです。江戸時代には遊女のいる吉原の遊郭と歌舞伎は2大悪所と呼ばれました。

ただ、こうした流浪の民は、元を正せば神や天皇に仕える人びとでした。それは芸能も職能も等しくカミのワザだったからです。それは遊びでした。
この本では、そうした遊びに長けた流浪の民として、ヤマトタケル、隠岐に流された後鳥羽院、さらには後小松天皇の落胤ともいわれる一休宗純、旅に遊び、旅に死んだ西行や芭蕉などが引き合いに出されます。
ヤマトタケルは連歌の始祖として召還されます。

流された神

さらに遡れば、和歌の祖としてスサノヲに行き当たります。

『古事記』にはスサノオとクシナダ姫が新居を求めて須賀の地に至った際に、雲の立ち上るのを見て、

  八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

という歌を詠んだという伝承があるからです。この歌が和歌の最初とされるのです。

冒頭の『神楽歌』の一節にしても、神とその妻あるいは巫女との歌のやり取りだといいます。歌はもともと神とその妻である巫女とのやりとりであり、さらにそれが神と人間のやりとりとなりました。神との遊びとして歌はあった。さらにそれには舞も音曲もついていた。

ところが、その和歌の祖とされるスサノヲからして流される神でした。スサノヲは天つ罪にて、アマテラスに高天原を追放されます。
ヤマトタケルにしても、兄を殺したことで父に疎まれ恐れられ、西方や当方の蛮族の討伐を命じられる。鎌倉幕府に対して承久の乱を起こしたことで隠岐に流された後鳥羽上皇、後小松天皇の落胤といわれる一休宗純もまたスサノヲの系譜にある人物です。

境界の外に出て人と出会う

こうした反逆~追放される神という運命が原初の遊びの構造として必要であることを示したのが、本書を僕が傑作だと感じた所以です。

国語におけるアソブはほんらい神の動詞だった。神神の行動はすべてアソブで表現しえた。このアソビに人間が関わる方途はただひとつ、神神をアソバせることを通じて神神のアソビを真似び、これを神神の世界から人間の世界へ降ろすこと。このとき、アソビの主体である神神は人間の世界にさすらったことになるだろう。
著者はこうしたさすらう神神を真似び、学ぶ人間のアソビもまた、さすらうという形を取らざるをえないといいます。

僕はこの本を読んで、遊びの本質は外に出ること、そして、外の世界で自分とは異なる人と一定の時間をともにすることなんだろうなと思いました。その一定の時間をともに過ごすために見知らぬ同士が情報のやりとりをして、その場で情報編集が行われる。その編集の場が遊びの場なんだろう、と。

和歌や舞、茶や花、色事や賭け事そのものが遊びではない。同様に、ゲームやマンガ、映画や音楽そのものは遊びではない。
この何が遊びになりえて、何が遊びになりきらないかがわからないと、情報は価値にならないし、売れない。商売にならない。著者がいうように商いもかつては遊びだったというのは、まさに遊びをわかっているかどうかで商売になるかならないかが決まるということでもあるのでしょう。

売る側も買う側も遊びを知らなくなって久しい。遊びを教えてくれる人もいなくなりました。
僕はこの本を読んで、すこし遊びというものを教えてもらえた気がします。



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