フォークの歯はなぜ四本になったか 実用品の進化論/ヘンリー・ペトロスキー

以前から読みたかったヘンリー・ペトロスキーの『フォークの歯はなぜ四本になったか 実用品の進化論』が文庫版にて復刊されます(1月9日発売です)。
そして、「読みたかった」この本の書評を発売前のこの時点で書いているのは、実は文庫版出版にあたり、光栄にも僕が巻末の解説を書かせてもらったからです。

ここに構想(デザイン)という考え方が登場する。Oxford English Dictionaryに英語としてdesignという単語が初出するのは一五九三年である。フォークはそんなルネサンスの文化の雰囲気のなかで登場し各国で使われるようになったのだ。それは単なる偶然の一致ではない。
『フォークの歯はなぜ四本になったか』「解説 失敗の発明」より

ヘンリー・ペトロスキーの著作に関しては、このブログでも以前に『失敗学―デザイン工学のパラドクス』書評)や『本棚の歴史』書評)を紹介させていただいてます。

拙著『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』では「あらゆる仕事はデザインの仕事である」という考えに基づきデザイン思考の仕事術を展開させていただきましたが、その考えのベースとなったのがペトロスキーの進化論的なイノベーションの見方であり、「モノがひとつ生まれれば世界は変わる」という捉え方です。
そして、解説でも「新たなモノが発明され暮らしのなかに浸透すれば、単にモノがひとつ増えたというだけでなく、人々の生活そのものが変化する。それが決して珍しいことではないことは本書の多くの事例が教えてくれる」と書かせていただいた通り、本書でもペトロスキーのその姿勢は変わりません。フォーク、食料品や飲料用の缶詰、ペーパークリップ、ファスナー、マクドナルドのパッケージなどの日常使われる実用品の進化のステップに光をあてながら、モノの形の変化の流れを紹介するだけでなく、それにともなって変化する人びとのライフスタイルや考え方もあわせて紹介してくれています。その丁寧に膨大な事例を調べ上げて論を展開していく姿勢は、僕などはまったく頭が下がるばかりです。

それでは、この良書をすこしでも多くの人に読んでもらえるよう、ここでもすこし本書の内容を紹介しておくことにしましょう。

17世紀になるまでフォークは使われていなかった

この本を読んで、まず驚くのは、イギリスでは17世紀になるまで食事をするのにフォークが使われていなかったということです。それより早いイタリアでも14世紀にようやく、フランスでは16世紀になってフォークを使った食事が行われるようになったというのです。
中国や日本など、東アジアではとうに箸を使った食事が行われていた時期です。

では、それまで西洋ではどうやって食事をしていたのか?
なんと両手にナイフをもって食事をしていたんですね。

使い方は左手にフォークをもった場合とおなじで、左手のナイフで肉塊などを固定したうえで右手のナイフで切る。そして、どちらのナイフを使ったかはわかりませんが、ナイフで切った肉片を刺してそのまま口に運ぶ。ナイフが切る用途と刺して口に運ぶ用途の両方で使われていたということです。なので、当時のナイフはいまの先が丸まったものと違い、鋭利に尖っていた。包丁やキッチンナイフとおなじです。

ところが、そうした先が尖ったナイフだと、どうしても肉塊などを切る際に、固定した肉塊がくるくると回ってしまったりして切りづらい。そりゃ、そうですよね。固定するのが1点なんですから。そこが回転の中心点になるのは考えてみれば、当たり前。

で、その欠点をなくすために、登場したのが2本歯のフォーク。歯が2本になることで、肉塊を切る時に支える点が2点となり、くるくる回ってしまうという欠点がなくなりますよね。
でも、それでめでたしめでたしとはならないから、フォークの歯は4本へと進化していった。これも2本歯のフォークに欠点があったからです。何かわかります? まぁ、答えは実際に本書を読んで確かめてみてください。

欠陥の発見がモノの進化を促す

先行するモノの失敗がモノの進化=イノベーションを促す、というのはペトロスキーが『失敗学―デザイン工学のパラドクス』などでも展開している見方です。

 食器類のような一見単純そうなモノについて、その形がいかに進化してきたかを想像してみるとはっきりわかるのは、人工物が今あるような形になった経緯を理解するための支配的原理として、「形は機能にしたがう」説は不適切だということである。(中略)
 本当の意味でモノの形を決めるのは、ある働きを期待して使ったときに感知される現実の欠陥にほかならない。

「形は機能にしたがう」説が正しいのであれば、西洋のフォークとナイフ、東洋の箸という違いが生じる理由はうまく説明できません。それに対して、ペトロスキーはあくまで現実に先行して存在するモノに対する欠陥の発見がモノの進化を促し、形を決定する要因だということを明らかにしています。

また、ペトロスキーはこうも言っています。

 ナイフやフォークや箸のようなおなじみの食器類を、進化という全体像に入れて眺めてみること-必然的に仮説の域を出ないが-それらのデザインの基本的な考えを新たな視点から見ることができる。なぜなら、こうした道具のデザインは、偉大な作り手の頭の中で完璧に練りあげられてから生まれるのではなく、むしろ、それらを取り巻く社会、文化、技術に関連し、使った側の(おもに不愉快な)経験を通じて変更が重ねられてつくものだからである。そして逆に、人工物の形状の進化は、われわれがそれらをどう使うかに多大な影響を与える。

これは、ひとりの天才的なデザイナーや発明家がゼロから新しい発明品・イノベーションを生み出すなんて考えることが完全な勘違いであるということですし、さらには、新しい発明はつねにそれが生まれる背景としてその場の社会、文化、技術に大きく影響を受けざるをえず、ユニバーサルデザインという思想そのものが一種の視野狭窄による幻想でしかないということを明らかにしているのではないかと思います。
このあたりは、「工藝の道/柳宗悦」などでも紹介している柳宗悦さんのものづくりと地域の自然や歴史や文化のつながりをみる見方に近い。というか、このへんが見えてないとダメでしょ、と感じます。

「人工物の形状の進化は、われわれがそれらをどう使うかに多大な影響を与える」以上、人が人工物をどう見て、何を欠陥と考えるかというモノの見方や思考自体も常に現状の影響を免れません。だからこそ、「モノがひとつ生まれれば世界は変わる」のであり、世界の見方はいつでもそこに存在するモノの影響につよく曝されているのだということを僕らは忘れてはならないのだと思います。

完璧なモノはない

ペトロスキーは「完璧になった」人工物などありえない、といっています。
食物や飲料の長期保存を可能にした缶詰の発明がその缶をどうやって開ければよいかという新たな問題を生じさせたことや、ポリスチレン製のマクドナルドの容器が保温性や油のベタつきが外ににじみ出るのを防ぐという利点を生じさせたと同時に容器のゴミ処理という問題を生じさせたことなど、多くの事例をあげて、あるモノの改善がつねに同時に別の問題を生む要因ともなっていることを指摘しています。
それが「完璧になった」人工物などありえない、ということであり、モノは常に欠陥を含み、改善のきっかけを抱えているということでもあります。その意味で短絡的に「この製品は従来のものよりユーザビリティが向上しています」とか「性能がよくなっています」なんていうのは、ちょっとヘン。よくなっている一方で、悪くなっている部分も必ずあるのだから。その意味でユーザビリティはあくまで「特定の利用状況で特定のユーザーが特定の製品を…」という前置きが必要なわけ。デザインは常にトレードオフってことです。

このあたり、ちゃんと理解できてます?>みなさま

ずっと前に「人体 失敗の進化史/遠藤秀紀」というエントリーで人間が二足歩行に移行することで歩行に必要なくなった前肢を器用な手に設計変更することで道具を扱えるようになると同時に、貧血、冷え性、椎間板ヘルニア、脱腸など、ヒト科固有の問題も生じさせたような生物進化の場合とおなじです。
形の進化はあくまで前の形がもつ欠陥を取り除き、新しい利点を得るものである一方で、新しい欠陥をも同時に生み出すのです。完璧なモノなどなく、それがデザイナーや発明家に新たなイノベーションを促させるきっかけを与えている。

そんなイノベーション=実用品の進化の歴史を、数多くの事例をあげて紹介してくれているのがこの一冊。
イノベーションということを考える人には必読の一冊ではないでしょうか。

そして、著者が見落としている、イノベーションを生み出す失敗そのものの発見こそがひとつの歴史的なイノベーションであること(そう。冒頭の引用にもあるとおり、僕はフォークの誕生を昨日紹介した「ルネサンス様式の四段階―1400年~1700年における文学・美術の変貌/ワイリー・サイファー」の大きな変化の時期に重ねてみているわけです)を指摘している僕の「解説」も手前味噌ながらこれまた必読ではないか、とw。



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