ルネサンス様式の四段階―1400年~1700年における文学・美術の変貌/ワイリー・サイファー

狭義のルネサンスからマニエリスムへ、そして、バロックを経て後期バロックへ。
15世紀から17世紀にかけてのルネサンスの流れを、このような4つの段階に分けて考察するのが今回紹介するアメリカの文化史家、ワイリー・サイファーの『ルネサンス様式の四段階―1400年~1700年における文学・美術の変貌』です。

この本を読んであらためて日本人って西洋のことをほとんど理解しないまま、西洋が生み出しグローバルに展開した近代のしくみに乗っかってしまっているんだなと感じました。
それがどういった状況で何を目指して生み出され、その結果、何がどう変わったのか。
さらにいえば、そうした近代のしくみが自分たち自身のいまの生活にどういう影響を与えているのか。
またその影響を認識して、それを嫌うにしても、根っこの部分でそれがどういうしくみであるのかをわからないから表面的な批判になってしまい、結局は懐の大きなそのしくみへと取り込まれてしまう。

西洋と日本のパラレルな動向

そういう巨大な間違いの根源を、僕はこの本で描かれた4段階のルネサンスの流れに感じます。
ただし、それは決して海の向こうの他人事ではない。キリスト教が中心にあった中世ゴシックの時代が、各国の王侯の力が大きくなり、力を持ったギルドも生まれ、世俗化する傾向がある中で、キリスト教中心の世界に対するオルタナティブとして生まれたのが15世紀以降のルネサンスの動きであるとしたら、それは1467年から1477年にかけて起きた応仁の乱以降に顕著になる日本文化の民衆化、平民化にも対応するからです(「日本文化史研究/内藤湖南」参照)。

キリスト教による世界の統治に混乱が生じた時代にルネサンスが花開いたように、応仁の乱以降、戦国の時代に突入すると同時に、将軍家や公家を中心とした茶の湯は、武野紹鴎を経て利休へと向かい、織部や遠州を生み、世阿弥の能楽は、出雲阿国のかぶき踊りを経て歌舞伎へと変遷する。こうした西洋の動きと日本の動きをパラレルに見るなかで、ルネサンスとは何だったか、西洋の15世紀から17世紀においていかなる思想の転換が起こったのか、それをどのような表現手法がサポートしたのかを考えることは非常に重要なことではないかと思うのです。

思想の基底には、観念がある。その観念を支えるのが本書で取り上げられるようなさまざまな芸術(建築、絵画、彫刻、演劇、詩など)が提供するイメージなのですから。

ルネサンスからマニエリスムへ

それにしても、ルネサンスが描いた軌道をこんな風に整理してもらえると、非常に興味深い。

中世ゴシックが描いたプレヒューマニズムの空間を、数学的なエステティックな技法を用いて美的な空間構造で描きなおす試みとしての狭義ルネサンスが形成期であるとすれば、あまりに機械的で形式的なそのルネサンスの遠近法的空間を、人間の迷い疑う内面を反映するかのように長く引き延ばし蛇のようにねじることで破壊したマニエリスムはルネサンスの一時的な崩壊期でした。行動と感情が一致せず焦点が明確ではないハムレット、身体が蛇のように長くねじれた形で描かれた群像は誰一人視線があうことなく観る者を不安に駆り立てるパルミジャニーノやエル・グレコやティントレットの描く暗い絵画。あるいはミケランジェロによるメディチ家礼拝堂やラウレンツィアーナ図書館などの建築の要素と構造が不一致で安定を欠いた空間など。マニエリスムは機械的で人間的な生気を欠いたルネサンス表現に対して背中を向けるように、ディセーニョ・インテルノ(内的構図)を標榜しますが、その構図は何かを表現するというより、むしろ表現することを拒むような不安定さ自体をあらわにします。

マニエリスムからバロック・後期バロックへ

そうした構造と感情が一致しないマニエリスムの不安な空間を、過剰なほどの物量とエネルギーを前面に配置し、かつ、それを閉じた空間のなかでコントロールしきることで再度空間を統合したバロックはルネサンスの再形成の時期です。そのバロックの代表ともいえるのがベルニーニの彫刻や建築であり、ルーベンスやレンブラント、そしてフェルメールの絵画であり、ミルトンの『失楽園』が表現した、光と影を巧みに使い、閉じた空間のなかで膨大な質量によってエネルギーを爆発させる過剰ともいえる装飾性をもった激烈な力学的空間でした。バロック空間はその激烈な動きや過剰な装飾性にも関わらず、マニエリスムの不安定さとは逆に、空間構成が完璧に統御されており安定しています。その空間のなかで表現される動き、エネルギーという力学的装置は、あらかじめわかりやすい劇的な効果を狙った演劇装置あるいは実験室的システムだといえます。そのわかりやすさは、マニエリスムの難解さ(というか答えのなさ)とはまさに正反対で、きわめて暴力的に答えを一元化する。そうしたわかりやすさが安っぽいキッチュな演劇性に流れるのは必然で、僕などはこうした「わかりやすさ」という暴力こそが今最も見直さなければいけないと思って「説明」などのエントリーを欠いているくらいなので、このバロックに対しては、ちょっと嫌悪感も覚えました。

さらにこのバロックの過剰な物量とエネルギーさえ、適切に削り取ることで力学における作用/反作用を人間の表情や関係性と完全に機械的に論理的に一致させた後期バロックはルネサンスの最終段階であり、ここまでで一通り、キリスト教を中心として人間ではなく神を描いてきた観念の向かう先が、人間中心への移行が完了するのです。

ゴシックと啓蒙のあいだで

こうした観念の表現技術がともなってこそ、ヨーロッパは啓蒙の世紀に入っていけたのでしょう。人間の内面を外面の表象として表現する技術があってこそ、蒙(くら)きを啓(ひら)く時代=見える化の時代を実現することが可能です。
それ以前に世俗化、平民化した流れがあり、さらにそこにバロック=キッチュ的なわかりやすい表現技術や、後期バロックでソフィスティケイトされた劇空間の表現技術がともなえば、わかりやすさ-わかるようにしてくれる、啓蒙してくれる-表現がより受け入れられるようになります。そこではマニエリスムの不安定な表現も、さらにそれ以前のゴシック的な神秘主義的な表現も排除される方向に向かいます。

そうした足場を整えたものこそが、このルネサンスという時代なのかなと感じました。

マニエリスムに注目する

ただし、こうしたルネサンスの試みが宗教改革や宗教戦争といった混乱の時代に対するひとつの解決として行われたことは忘れてはいけないし、先にも書いたとおり、それが日本における戦国から安土桃山の時代ともパラレルにみたほうがいい。それは「未来のための江戸学/田中優子」でも書いた通りです。
ある意味、信長~秀吉と連なる力業での天下統一の道のりは、力の表現であるバロックを産み出したトレント宗教会議の強引ともいえる偶像の肯定にもあい通じるのですし、さらにはこの時代、羅針盤や火薬といったルネサンスの発明とともに、東インド会社やイエズス会宣教師によって西洋と日本を含むアジアはグローバルな動向のなかでつながっていたのですから。

こんな風にルネサンスをみたときに、僕は注目すべきはマニエリスムかなと思っています。
ルネサンスの生み出した構図の描きかたを越えて、ねじれ長く延びることで、此の地を彼の地としての異界へと通じさせる。そんなルネサンスの異端児であるマニエリスムこそがキッチュに収束しがちなバロックのわかりやすさを越えて、人が明るすぎる啓蒙の世界に迷いこむのを悔いとどめるのにちょうどよい迷宮の役割を果たしてくれるのではないか。
そんな気がするのです。



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