人間がつくれないモノ

元旦の今日。夕暮れ時に外に出てみると、空がとても綺麗な色合いに染まっていました。
大きなマンションの建物が額縁のようで、空の色のグラデーション、夕陽を反射させた雲の複雑な色合いがすっかり主役となっていました。

最近、こうした夕暮れの空を眺めることが多い。冬の澄んだ空気がみせる夕暮れの空はわりと好きです。
さらに陽が暮れて暗闇に覆われた空に明るい月が浮かんでいるのも乾いた冬の空でみるほうが好きです。湿気をまとった朧ろ月よりも硬質な光りをみせる冬の月のほうが好きだと最近わかった。

人間がつくれないモノ

今日、夕暮れの空をみていて、ハッとしたのは、人が作ったマンションが完全に背景化して見えたこと。もちろん、空にくらべればマンションのほうが手前にあるのだから背景という言い方は適切ではない。正しくは先に書いたとおり額縁のように見えたというべきでしょう。

昼間は陽の光を受けてはっきりとその姿を主張するマンションが、夕暮れ時のわずかな明るさでは黒いシルエットなって、視覚的には額縁の役割へと後退する。
それに気付いてまわりを見渡せば戸建ての家屋も雑居ビルの建物も等しく額縁と化してしまっていて、見事なグラデーションをみせる空の色に完全に存在をかき消されていました。

昨年の夏、藍の型染めの体験をした際にみせてもらったビデオで、蓼(たで)から藍をつくる職人さんが藍づくりをする際にまずは神(愛染明王)への儀式を行ってから作業に入るのが印象的でした。
人間がつくれないモノというのがある。藍づくりをする職人さんはきっとそれをよく知っているのでしょう。それで神への儀式が作業に先行するのでしょう。藍づくりは人が行うことであったとしても、蓼を藍に変えるのは、冬の空を見事な色に染あげるのと同様に、人の力が及ばない別の力によってなしえるものだという認識があるのに違いありません。

人間の力の外を意識する

藍づくりの職人に限らず、昔の職人というのは作業をはじめる前にまず神に祈る儀礼を行ったのではないかと思います。
職人の仕事だけではありません。江戸時代の連歌会などの場でも、会席では床の間に神が祭られ、神酒や花が飾られたといいます。

かつては職人も芸能民もみな、神仏か天皇直属の人びとでした。職人がつくった品を売る市場も寺社の領域や天皇直属の場所に限られていました。そうした場が世俗の縁からは切り放された場であったというのが理由です。
職人が行うものづくりも、芸能民の謡いや舞も、世俗の人間が行う行為というよりも、神とともに、神の力を借りて行う行為だという認識があったからでしょう。

身体感覚で「論語」を読みなおす/安田登」というエントリーで、人に「心」が生じる以前に、人は「命」に従って生きていたという仮説を紹介しましたが、いまの神への儀礼を忘れた生き方というのはどうも、人間自身に対する意識=心ばかりが過剰で神=命をあまりにも忘却しすぎているのではないでしょうか。人がつくるモノばかりをみて、人間が何でもつくれるとでも勘違いして、人間がつくれないモノに対して心を開くことをあまりに忘れすぎているのではないか、と。

価値

人間がつくれないモノのほうが魅力的なことは少なくないでしょう。

プラチナだってダイアモンドだって、人がつくれないから価値が高いはずです。人間がつくれないモノにはそれだけで稀少価値をもつ可能性がある。そこに人が手を加えることで、人間がつくれないモノは人にとっての価値をなす。

科学技術という人間の力で何かを生み出すことももちろん人間にとっては必要なんだけど、そうではない人間がつくれないモノを使わせてもらうことに感謝しながら行うものづくりをないがしろにしたり、その力を奪ってしまうことにはもうすこし自覚的であっていいのではないかと感じます。
あまりに人間の力以外のものに無頓着すぎるし、しかも自分たち人間のなかの意識できる部分以外のものに鈍感すぎる。こだわりもなければ感性も鈍くて頭でっかちで臆病で傲慢。
そんな生き方って、ちょっとみっともないなというのが昨年末以来、僕がつよく感じるようになってきたことでしょうか。

2010年という区切りのよい年だし、そういうみっともないところをすこしでも変えていくための活動をしていこう。
年初にそんな誓いを立てておこうか、と。

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック