自分がない

ネット上で誰かとコミュニケーションする。自分のブログを書く。電話で誰かと話す。手紙を書く。メールを書く。コミュニティでやりとりをする。

そうしたコミュニケーションを繰り返すことで、逆に失われていく自分というのがあると思います。コミュニケーションすることで生まれる自分と失われる自分がある。
特に、そうしたコミュニケーションのなかで、誰かや他の何かを否定したり批判したりが多かったりすると、徐々に自分が失われていく。見失われていってしまう。

フィクションとしての自分

自分とはいうのは少なくとも意識のうえではフィクションに違いない。
ことばとして感知できる自分は、結局は無数の細胞のかたまりである身体がそれぞれ身勝手な活動を結果を、意識としてつくるものの同一性をもった存在として編集しなおしたものでしょう。

そのフィクションである自分はメディアの数だけ増殖する。
現実の場における自分だけでなく、ブログの上の自分、mixiのなかで一部だけに開かれた日記のうえでの自分、あるいは、名前を伏せて匿名で行うネットコミュニケーションのなかでの自分、著書のなかの自分、親しい人への手紙や電話のなかの自分。
文字を書くための紙もなく、また文字自体が存在しない状態のオーラルコミュニケーションだけの状態であれば、同一性を確保するための基盤としてのメディアもないために、統一された自己というフィクションも形成されなかったのかもしれません。

トーン&マナーの一貫性

現実の場における自分もまた、その場の違いによって分裂することもある。家での自分、職場での自分、客先での自分、友人の集まりのなかでの自分など。

本当の自分探しなどが行き詰まるのは、それがそもそもフィクションであり、かつ同一性を欠いたフィクションであることを忘れているからです。
ただ、それは常におなじであるという同一性は欠いていても、特定のメディアにおける表現やトーン&マナーの一貫性という意味では統一性をもったフィクションです。

そのトーン&マナーの一貫性が失われると、精神的な病と見なされるのでしょう。それゆえ、精神病は個人的な病というよりも、社会というメディアとの関係性における病なんだと考えますが、どうなんだろ?

批判によって失われるもの

そのフィクションである自分が、他者とのコミュニケーションのなかで、作られると同時に失われていく。

特に自分以外のものを批判・否定するだけのコミュニケーションにおいては、失われるものが大きいのではないかと思います。それは作られるものに比べて、失われるものが多すぎるから。
アウトプットすることで何かがわかることがあります。ただし、それはすでにわかっている/意識されている自分の考えに基づいて、それとは異なる他者の考えや行動を批判・否定する場合には得られないことでしょう。何かがわかるというのは、意識の外にあるものを発見することですから、意識しているものだけをひたすら見て、それ以外を排除するように否定する姿勢では、アウトプットが発見につながることはありえません。

他者とのコミュニケーションにおいては、必ず自分は摩耗していく。
そのとき、新しい自分の発見がないにも関わらず、他者の否定により、自分の摩耗ばかりを進ませるから、どんどん自分が見えなくなっていく。

カオナシ

自分のすでにわかった考えだけに固執するうちに、自分というフィクションは摩耗していく。さらにそれが複数のメディア上で、どんどん自分を摩耗させつつも、それを否定するためであれ他者の文脈のうえで自分を動かすうちに、自分の意図しない自分がどんどんできてしまう。まさにトーン&マナーの一貫性を欠いた無数の自分のようなものが気がつけば自分のまわりにたくさんあることになる。

相手にはその自分が見えているが、自分だけがその複数の自分が見えていない。
その状態が『千と千尋の神隠し』に出てくるカオナシなのでしょう。

自分しか見ていないことで、カオナシとなる。しかも、その自分が見ているつもりの自分がただの土くれのフィクションだったりするのだから、結局は何も見ていないことになる。
自分のことしか考えないという人がいるが、不幸なのは、そういう人は本人が思っているのとは違い、実は自分のことさえ考えられていないということなのでしょう。

イメディアへの視線

自分はフィクションであるということを前提にすること。
そうすれば、過度に自分の意識の正しさを他人に押し付け批判することもないだろうし、タマネギをむくような不幸な本当の自分探しをすることも免れられる。

特にデジタルでバーチュアルなコミュニケーションにおいては、自分というフィクションをそこで作り出す場合でも、素材となる情報がすくなすぎる。「僕がライフスタイル研究会(仮)を立ち上げたいと考える理由」というエントリーで書いたとおりで、現在の仕様である限り、WebやITはインプットの面からみるとあまりに心もとない。

バタイユ/酒井健」で紹介したとおり、ジョルジュ・バタイユという思想家は、「物の力」「言葉の力」への警戒を指摘し続けた思想家でした。バタイユが「物の力」「言葉の力」と呼ぶのは、物事を人間的に固定化してみる際にたくさんの力を削ぎ落として作られるフィクションだとみていい。

バタイユは、技術および技術が生みだした物品に「物の力」を見て警戒していた。ちょうど「言葉の力」を警戒していたように。イメディア(直接的な生の交わり)を欲しつつ、メディア(媒体・複製技術)の力を侮ってはいけない。夜のなかの生を語るバタイユの呻吟は私にそう教えている。

このバタイユのイメディアへの視線は、詩のことば、合理の言語で書いた「昼間の星を見る」視線に通じています。人間の合理の目で見るのとは異なる、より生/性に直結した詩の視線でみる。
それは意識の目にはひっかからない自分や他者を忘れないようにすることにもつながるのではないか。

メディア上のフィクションの自分(あるいは自分のなさ)に惑わされないためにも、自分自身の生活、人生、生き方に目を向け、バタイユのいうイメディアにも自分自身でこだわり続けることが必要なのではないでしょうか。
最近、そのことをよく感じます。

 

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