
今回、松岡正剛さんに迎えられたゲストは、花人・川瀬敏郎さん、評論家・高山宏さん、舞踊家・勅使川原三郎さんの3人の方でした。
僕にとってはいずれも格別な思いがあるお三方です。
高山宏さんは、いま夢中になって読んでいるM.H. ニコルソン(『円環の破壊―17世紀英詩と「新科学」』)やフランセス・A・イエイツ(『世界劇場』、『記憶術』)、マリオ・プラーツやジョン・ノイバウアー、バーバラ・マリア・スタフォードの世界に導いてくれた方ですし、川瀬敏郎さんは白洲正子さんつながりで花というものを考えさせてくれた方です。
それから勅使川原三郎さんには直接的なつながりはないものの、実は25歳くらいの時に、勅使河原さんのワークショップに参加していた方といっしょにダンスのレッスン、舞台を経験させていただいたことがある。その時のひたすらジャンプをして体の落下と地面に対する反発、重力というものを感じることや、呼吸を感じるレッスンは昨日も勅使河原さんが紹介してくれていて、席に座っていても身体がそのときの記憶を保持しているのか反応しようとするのがおもしろかった。
最初に、資生堂名誉会長の福原さんが「昼間の星を見る」という話をされていました。見えているものだけではなく、見えないものにも目を凝らすということです。
僕もそのことを時々、このブログや著書にも書いていますし、それを意識して生きているつもりですが、あらためてそのことの必要性を考え直させてくれた貴重な時間でした。
自分自身を見つめ直す
昨日、「自分自身を見つめ直さないとできない話がある」と書きましたが、川瀬さんの話を聞いて、この「自分自身を見つめ直す」という場合も、単に「私はなんだろう」と思って見たのでは見えてこないものがあると感じました。自分の目で自分を見つめるのではなく、あなたを通じて自分を見る、彼方を通じて自分を見つめなおすということが必要です。
川瀬さんは花から見られるという話をされていました。
僕もいまライフスタイル研究会(仮)準備室 というものをやっていて、参加者の目から自分を見つめ直すということを余儀なくさせられているという感があります。
「自分自身を見つめ直さないとできない話がある」で書いたこととも通じることですが、合理性や理屈や一般論で語っては抜け落ちてしまうものがあまりに多すぎると感じています。
もちろん、それは合理性や論理が必要ないということではなくて、松岡さんも昨日言っていましたが、それに偏りすぎている、頼りすぎているというのがよくないという話です。
合理性や論理で語ることの一方に、「昼間の星を見る」ような見えないもの、不可解なもの、あいまいなものを切り捨てない姿勢が必要だと思うのです。
自分のなかにもある割り切れない部分、「昼間の星を見る」ような見えないものを見つめる目が必要かな、と。
詩のことば
そうした割り切れないもの、不可視なもの、ふしぎなものを見つめて、それを語るとき、いまの合理の言語で語るのには、そもそもむずかしい面がある。それがこのところ、ライフスタイル研究会(仮)準備室をやっていて、一番強く感じるところです。
「円環の破壊―17世紀英詩と「新科学」/M.H. ニコルソン」でもすこし書いていることですが、17世紀以降のヨーロッパの変化を機転に、詩のことばと合理の言語は分離され、現代では前者の詩のことばの役割がきわめて狭い場所に押し込められ、合理の言語(賞味期限や金額、保証、役割に対する過度な期待など)が猛威をふるってしまっている傾向がある。
先にも書いたとおり、合理の言語がいらないとか悪いというのはではありません。ただ、そればかりに頼りすぎてしまっている傾向がどうなのかと思うのです。
もっと詩のことばで語らないといけないことが本当は多い。それを実感として僕はいま、ライフスタイル研究会(仮)準備室の活動をはじめたなかで、とても感じている。
私は、私は、ばかりではどうにもならない。
目の前にいるあなただけを見つめるだけでも足りない。
折口信夫のように古代を通して自分たちをみる目や、彼方を感じる感性をもって、詩人のように語ることも必要だなと思います。
また、バタイユのようなことばで語ることも。
これは本当に自分自身を見つめなおしていかないといけないなと思いました。
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