つまり考えるほうは停止というか起動させないことができるけど、思うほうは停めるってのがそもそもできないんじゃないか、と。
考えるほうは意志がないと動かないけど、思うほうは逆に自分で意図しなくても自動で動いちゃう。その2つをひとつの単語として「思考」とするのは、あらためて考えてみると、おもしろい。
イメージとしては、思うというのは写真を撮るようなもの、考えるというのは撮影した複数の写真を整理したり編集したりすることなのかな、と。しかも、撮影のほうはある程度、自動シャッターだったり。
そういう自動で降りるシャッターの結果としての「思い」を思考ということばがあるがゆえに、「考える」という能動的な活動と混同してしまっていたりするのだろうか。
撮りっぱなしで放置された写真。
整理されたアルバム、編集された写真集や雑誌。
もちろん、素材自体の良し悪しもあるが、整理や編集という活動があるのとないのとでは違いは大きい。
思うとか、感じるとかいう反射神経的なもの。
ある意図に従って、その意図自体の存在を証明するための素材の整理、編集作業としての考えるという活動。
ともに頭のなかだけで行われる見えない活動であるがゆえに、その違いは見えにくかったりもするけれど、そこはやっぱり違うものとして理解しておいたほうが、なにかと有益なのではないだろうか。
※もちろん、そんな区分は単なるモデルであって、いくらでも両者の中間に位置するグレーなものはある。だけど、そんなことをいったら、そもそもモデルというものの意味を否定するだけだ。
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