書くことがないというのは考えてないというのに近い

昨日ちょっとインプットとアウトプットのことについて書きましたが、アウトプットという点では、書くことがないというのは考えてないというのに近いんだろうなと思います。

書けるくらいに考えているかどうか。それに満たない考えというのは、たぶん意識がゆらゆらしてるだけであって考えてるとはいわない。

もちろん、この「書く」は、絵を描く、見積もりを書く、ワイヤーフレームを描く、日記を書く、ブログを書く、報告書を書く、など、いろんなアウトプット形式があっていい。ただし、ある程度の量はないと考えというのはまとまったり展開したりしないので、140文字だと話にならない。

考えるというのは頭のなかでアウトプットを構成し組み立て展開する作業だと思います。自主的に「書く」という行為を行っているかは別にしても、書いて、とお願いされた時に、すぐに書き始められないなら、それはいかに物事を考える習慣が身についていないかということだろう。

その意味では自分がふだん物事を考えられているかどうかを試すには、何か書いてみるのが手っ取り早いのだろう。そこで最初から表現うんぬんにこだわることはない。まずは自分のなかで考えていたはずのことが、まとまった文章にはならないまでも、ある程度、構造化された短文の箇条書きレベルくらいには落とせるかどうかを試してみるといい。そこで短文さえ書けずに単語の羅列の箇条書きになったり、箇条書きの構造が何のまとまりもなく自分でみても何を表現しているのかわからないようなものだったら、それはふだん物事を考えきれていない証拠だと思っていい。思考停止のレベルはたぶん、そうやって測ることができると思います。

この記事へのコメント

  • ななし

    なるほど凄く同意です。
    僕も時々徒然と書いたブログを消して書き直したりする事も多々あり、
    その原因は何も考えないことであって、ブログには適当なミミズが動いていただけかもしれません。

    あなたのブログは確かに完成度も高く読みごたえもあり非常に興味深いもので、お気に入りに登録させてもらおうとおもうのですが、なぜかコメントがない。
    もしかしたら完成され過ぎている雑記帳になっているかもしれません。
    なので少し文章に隙間を作ってみたら他者の意見も聞けてより良いブログになるかもしれません。
    ちょっと余計なことですみません。
    2009年12月18日 16:22
  • hal*

    僕の場合、ツイッターはメモという意識ですね。ただそのメモに価値観的に近しい他者から反応があったりすると、後の自分の「考え」の助けになることがあります。
    ただ140文字でもひとつのパラグラフとして書く事は心がけています。
    2009年12月22日 18:54

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