何かといえば他人やモノを疑うばかりで、信じるということが自然にできなくなっているいまの時代。その原因のひとつに、自分がやっている仕事と自分たちの暮らしが大きくかけ離れてしまっているということがあるのではないか、と。
どうだろう。自分のやっている仕事が自分のライフスタイルをつくるのに、ぴったりとあっていると感じられている人はどれくらいいるのだろうか。自分たちの仕事が生み出すモノやサービスが自分たちの暮らしを豊かに(物質的な意味だけでなく精神的な意味でも)するものだと、ある程度の自信をもって感じられている人はどの程度存在するのだろうか。
仕事の大事さ
仕事というのは大事だ。それは単に自分が食うために大事なのではなく、他人の生活を支えるために必要だからである。その意味では、当然、主婦の仕事も仕事である。それは人の生活を支えるのだから。むしろ金を稼ぐかどうかは仕事にとっては二の次だ。むろん、金を稼がないと生活が成り立たない現代においては、それは空論でしかないが。それに金という形態をとらなくても、人は経済を必要とする。単純化すれば、仕事は経済と生活文化を生むために必要なのである。それらは人が生きる上で欠かせないものだ。
自分の仕事が何を生み出しているか
ところが、そう思って仕事をしている人は案外すくない。自分たちの仕事がモノを作って売ることだと思っている人が多いのではないだろうか。自分たちの仕事が人々の生活に何を生み出すのかを考えた上で仕事をしているだろうか。
いや、それ以前の問題だ。社会のこと、他人のこと以前に、自分のやっている仕事がお金をもらえるということ以外に、どれだけ自分の生活の足しになっているかである。
自分の作っているものは直接的であれ、間接的であれ、自分の生活を、自分の心を豊かにしているだろうか。自分の生活と自分の仕事が完全に分離してしまっている人がすくなくないのではないだろうか。
自分の居場所
もちろん、社会的な仕事だけが仕事ではない。先にも書いたとおり主婦の仕事は仕事だし、友達に何かしてあげるのも仕事だ。それで相手の役に立っていると感じられれば、小さいながら自分の居場所をそこにみつけられるだろう。仕事とは他人とのコミュニケーションそのものだ。仕事を通じて人は他者とコミュニケーションをする。そこで自分の仕事を信じ、自分をその仕事に預けられなければ、他者とのコミュニケーションは上っ面なものとなる。ただ、いかんせん、家庭や友人関係だけでは人が生きていくには狭すぎる。生きていくには、どうしても、もうすこし広い社会が必要だ。そこで仕事の対象範囲も広くならざるをえない。社会に対してどんな仕事をするかが問題になる。
繰り返しになるが、金を稼ぐか否かではない。社会に富を生み出せるかだ(それは必ずしも経済的な富ではなくむしろ文化的な富だろう)。それが自分の居場所をつくる。それがなければ社会に対する居心地はわるくなり、自分に自信をもてなくなる。社会とコミュニケートする手段としての仕事を信じられなければ、社会に対して嘘をつくしかない。その状態で社会と堂々と向き合うことなどできるはずもない。
仕事と生活の分離
ところが、だ。残念ながら、いまの社会で、自分の仕事を社会の富と一致させるのはきわめてむずかしくなっている。生活者としてはとっくにモノより大事なものがあるとほとんどの人が気づいてしまっているのに、仕事のほうは相変わらず前時代的なひたすらモノをつくる仕事だったりするからだ。その生活者としての自分と、仕事をする自分とのギャップが仕事を単なる金を稼ぐ手段へと堕落させてしまっている。ただ金のために、自分が信じていないものをつくるといった矛盾を抱えて生きることになる。
ここが矛盾なくつながらない限り、自分を信じられるようになるとか、自分で考えて解決するとか、自分に責任をもつとかいうのはむずかしいのかもしれない。
とにかくモノをつくれば社会は豊かになるといった、とっくに信じられなくなった幻想から仕事を救いだす手だてを、それぞれが考え、かつ大勢の力でそれを実現していかなくてはならないのではないだろうか。
関連エントリー
この記事へのコメント
宮本
遊歩者
ありがとうございます。