2009年12月04日

疑う理由

信じる力」の続編として。

なぜ、疑うのか。
その理由は実ははっきりしている。

簡単な話だ。
それは他人やモノに頼ろうとするからだ。自分で責任をとるつもりがないからだ。

疑う理由

他人やモノに頼ろうとすれば、その対象が本当に頼れるものかどうかは気にかかる。対象となるものが信じるに足るものかと考えたくもなるだろう。

逆にすべて自分でやって自分で責任をとればいいと思えば、何も疑う必要などない。自分にできるかどうか不安になることはあるだろう。それがきっかけで自分の能力を疑いたくなることもあるだろう。だが、その場合でさえ、本当に疑っているのは自分自身の能力ではないはずだ。そのとき、疑っているのは、自分ができなかった場合、その結果を評価する他人の目を疑っているのだ。

つまり、疑うことの背景には自分が何を為すかより、他人やモノがどう手助けしてくれるかとか、自分がしたことを他人がどう見るかとか、そんな自分の責任範囲外の他人のことばかりを気にしている、ある意味、無責任で臆病で卑怯な姿勢が隠れている。

モノとワザ

信じるというのが、どこまでいっても自分の問題だというのは、相手がどうこうは関係なく、自分の分の範囲内できちんと自分の責任をとる覚悟で望むことこそが信じて何を為すかということだからだ。それを自分の分を超えたところを高望みし、足りないところを他人やモノの力に頼ろうとするから疑いたくなる。そうではなく、あくまで自分の分にそぐう働きをせいいっぱいやることに注力すれば、むやみにモノや他人に頼らずに済む。分不相応な高望みをしたりするから、得体のしれないものにすがりつくはめになるのだ。それでは疑いばかりが増えるのも仕方ない。

モノに頼って分不相応な仕事をしようと考えるよりも、自分のワザでなんとかなる範囲で仕事をしようという姿勢が世の中全体からなくなってしまっているからこそ、信じる力が急速に社会から失われていっているのだろう。

分を忘れる

問題があった時に、モノで解決するかワザで解決するか。

例えば、箸ではつかみにくい豆を食べるのに、箸の使い方をうまくするのか、豆を食べやすい箸とは別の道具を発明するのか。自分の仕事がうまくいかない時に、自分で努力してなんとかするのか、外部のコンサルタントに頼るのか。

ワザで解決しようと決心すれば何かを疑っている場合ではなく、自分を信じて努力するしかない。それを外に頼ろうとした瞬間、疑いの泥沼にはまる。もっといい方法、もっといい道具があるのではないかと考えだし、目の前の方法や道具の悪いところばかりが目につくようになってしまう。
その贅沢な欲望に終りはないし、そのうち、自分の力でなんとかするということ事態を忘れてしまう。それは自分の分を忘れることだ。ようするに自分を喪失することにほかならない。

分を知る

そうなると、もう疑うことはとまらない。唯一疑わずに、頼ることが可能な自分がないからだ。

完璧なものなど、この世にひとつもない。であれば、すべてが疑う対象になる。その悪循環を断ち切れるのは自分を信じることだけだ。
自分を信じることで道具や他人を信じることができるようになる。失敗を失敗ととらえずに、そういうこともあるものだと受け入れられれば、自分も他人も道具も責める必要はない。次にそれと違う結果になるよう努力や工夫をすればよいだけだ。そうした行い自体が分を知るということなのだろう。

そうした自分の分というものを個人から奪う方向にばかり進んでいる世の中に対し、良識ある大人ならNOというべきだろう。それをしないで自分たちまで他人やモノや方法などを疑ってばかりの大人が多すぎるからたちが悪い。

自分の人生を生きるためには、何より自分の分をわきまえることが大事だということを、大人は次の世代に伝えていく義務があるというのに。でも、いまの時代、その義務のある大人ですら、そのことを知らずにいるのだ。
これでは誰もが自分の人生を生きられないまま死んでいくしかないのだろう。



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ラベル:信頼 生き方
posted by HIROKI tanahashi at 21:29| Comment(0) | TrackBack(0) | ライフハックス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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