信じる力

疑うよりも信じること。信じることによってしか人は何事も為すことはできない。

能力のなさとは何より信じる力のなさではないだろうか。疑ってばかりでは何もはじまらない。はじめないからこそ、余計に不安になり、信じられなくなる。そのことは「不安はなぜ起こるのか」でも書いたとおりだ。

方法と信頼

あるやり方を自分のものにできるかはまず、その方法を信じられるかどうかで決まる。ある製品を何も考えずに操作できるようになるのが、操作に対するほぼ全面的な信頼が生まれた時であるのと同様、ある手法を使えるようになるためにはその手法を信じることからはじめなくてはならない。

ところが(というか、だからこそ)、できない人ほど新しい方法が目の前に提示された時、とりあえず試しにやってみようとするより、その方法を疑ったり、やる前からその方法のダメな点をあら探ししはじめる。なかには、どういうわけか、「この方法は○○な人にはむずかしすぎて使えない」なんて、あかの他人のことを持ち出して、方法の問題点を指摘する始末。他人を持ち出すのは逃げだろうか。自分がその方法に向かいあって、それを信じる自信がもてないがための逃避なのだろう。

自分に向き合う

当然ながら信じるというのは自分の問題である。他人がその方法を信じるかどうかは、自分がどうこういうような話ではない。他人が信じようがどうだろうが、信じるかどうかは自分で決断するしかない。

この場合、決断とは行動することである。信じられるかどうか何の確証がもてない未知のものを信じるためには、その未知のものに自分自身がとびこむしかない。頭で信じたことにするのではなく、実際に信じたとおり行動するかどうかである。

方法を身につけるということに関していえば、疑うよりやってみることである。本当に信じられるかどうかの判断はそのあとでいい。それは自分の好みのものを選ぶのて変わらない。いいものかどうかは他人の意見も参考になることもあるだろうが、好みや自分に合うかどうかというのは他人の意見はほとんど参考にならない。結局は自分でしか判断できないのだから。

方法が身につくかどうかはそれによく似ている。もちろん、方法にはいい/悪いもあるだろう。だが、最終的には方法とはすべて個人の方法である。それは好みのものを選ぶのといっしょで、結局は方法を用いる人自身によってしか、それが信じるに足るものかは判断できない。ようするに自分がその方法を使えるかどうかなのだから。

他人がどうこうではなく、自分に向き合えるかどうかが信じることの前提だ。
それができないのなら、何かが身につくなんて希望はもたないほうがよい。

信頼は無意識のなかに

多くの人が誤解しているだろが、信じることは可能性の問題ではなく、実存の問題である。神はいるかいないかではなく、神とともに生きるか否かである。
つまり、第三者である他人が信じるかどうかに関わりがないのと同様、実は対象でさえも信じるかどうかには直接関わりがない。結局、信じるかどうかは自分だけの問題である。神を信じるかどうかは神そのものに関わりがあるというよりも、自分の生き方により強く関係しているのだ。

信頼の問題は意識の問題ではなく、生き方そのものであり、行動そのものだ。
水を飲む、子供を育てる、学校に行く、パソコンを使う、洋服を着る。そうした生活行動のすべてが何を信じているかに支えられている。それが信じることの力だ。人は何も信じていなければ生きることさえできない。

つまりは信じている状態の最高の状態は、信じていることさえ意識されない状態である。もちろん、意識されていないのだから疑うこともできない。意識もせずに行動すること、生きることの土台にあるのが最高の信頼だ。

疑うことは生を中断する

そんな風に考えると、何かを疑うというのは、その生の基盤を損ない生きることを中断するものではないか。
考えすぎて行動できないなんてのは、その典型だろう。

もちろん、考えること、疑うことのすべてが悪いわけではない。時には全面的に信頼していた生を中断して世界を疑うことも必要だ。それがこれまでの歴史において、人の生きる世界を、古代とも、中世とも、近世とも、戦前とも違う世界にした一番の原動力なのだから。

ただし、そうはいってもいまの時代はなんでも疑いすぎる。他人を疑い、モノを疑う。それは自分に信じる力がないことの裏返しだろう。だから、当然ながら自分をも疑って、あれこれ考えるばかりで、よしやって挑戦してみようとか、とにかく続けてみようという行動に結び付かない。やめることは得意でも、何かをはじめるのは苦手だ。

信じることは生きることそのもの

信じるというのは現実である。行動である。信じたものしか、この世には存在しえないし、信じたものだけがこの世界で生き活動するのだ。それは対象がどうこうではなく自分が信じるかどうか、自分にその力があるかどうかである。つまりはどう生きるかにほかならない。
信じることはリスクを伴うこともあるだろう。リスクを負ってダメージを負うかもしれない。だが、リスクやダーメージを自分で引き受けることこそが生きることにほかならないだろう。リスクを負わずに何を得ようというのか。信じることは生きることそのものだ。

信じる力はそうであるがゆえに重要なのだ。



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