フィギュラリズム

例えば、ある事業のアイデアが浮かんだときに、それが将来的にどのくらいの規模のビジネスになるかを試算する。そのとき、とうぜん、数字を使った試算をするわけですが、それを単なる数字としてみるか、自分の身体が腑に落ちて納得するような物質的なイメージとして感じとれるかでは、大きな差があると思っています。差があるというのは、事業が成功する確率が高いか低いかという意味で。

数字や抽象的な言葉をみて、物質的なボリューム感やかたちとして捉えることができるかどうか。さらに物質的な質量をともなった動きまで感知できるとさらによい。
フィギュラリズム。高山宏さんならきっと「かたち三昧」とルビをふるだろう、そんな身体能力。それって意外と大事なんじゃないか。最近、そう感じます。

フィギュラリズム

測定することは悪いことじゃない。調査の数字をみるのも現状把握をする上では大事。戦略というのはあるべき姿と現状のギャップを具体的にどう埋めるかに関するセオリーなわけで、そのためには現状についての把握がなければ、あるべき姿を実現するための戦略など、思いつくはずもないのだから。

けれど、その際に「現状把握」なるものが単なる数字や言葉による理解になってしまうと、それは一見現状把握しているつもりになれても、実はそれほど現状と乖離したイメージに騙されている状態というのもないと思う。数字や言葉で表現された現状なるものを、フィギュラリズム的身体能力をもって、もう一度、具体的な物質的イメージをともなったものとして感じなおすことができなければ、調査も測定も無意味ではないか。

現状というのはあくまで物質的世界に生きる精神的で社会的な生物である人間を織り成すもの。それを把握するということはやはり物質的なイメージを精神的であると同時に身体的に感じとることを指すのだと思っています。

『百人一首』に選まれた謎多い蝉丸なる人の

 これやこの行くも帰るも分れつつ
  知るも知らぬも逢坂の関

という歌に、初めて清新のフィギュラリズムを感じたのが小学生高学年のいつかのことだった。音も字面も旅人同様に往還・往復している、といえば分ってもらえるだろうか。言語が形式として孕まされているリミナリティ(境界性)を「関」という内容が念押しする。見事なかたち三昧である。

そうそう。こういう感じ方。こうした感じを受け取る身体に刻まれた能力。

ただ、この身体能力。とても大事だと思うのだけれど、具体的にどう養えばよい、とアドバイスすることはなかなかむずかしい。この人はその身体能力が高いとか低いとかいうのは、しばらく接していると(特にいっしょに仕事をしていると)わかるのだけれど、じゃあ、低い人にこすれば能力を磨けるよという具体的なアドバイスをする方法を僕は知りません。

ひとつ言えることがあるとすれば、自分自身の方法で自分自身の生活を楽しめているかどうか、ということが関係あるのだろうとは感づいています。それも「がんばろう」なんて無理せずに、もっと自然体で、ただ忍耐強さはもって自分自身の楽しみ方を常に模索しつづけ楽しんでいられる。そういう姿勢がフィギュラリズムを育てるのだろう。そんな風に思っています。



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