人間中心のデザインをする唯一の理由

人間と人間は絶対に通じあわない(それは動物同士が通じ合わないのとおなじ)。
機械と機械は(かならずといっていいほど)通じあう(それがおなじ言語体系で書かれているなら)。
人間と機械は通じあうようにシステム化することができる(人間中心のデザインで作られていれば)。

これが人間中心のデザインをする唯一の理由であるように思う。

人間は論理的な生き物ではないが、論理を解する生き物

機械という一方に固定されたルールが存在するから通じあう可能性が生まれる。人間同士が通じあったつもりになるのも、機械的な言語を媒介したときだ。ただ、言語は完ぺきな機械ではないので、それを媒介にしても通じあわないことは多々ある。また互いの表情や仕草をみて通じあえているような気がして安心できるからではないだろうか。

人間はかならずしも論理的な生き物ではないが、かなりの部分で論理を解する生き物だ。
デザインをする人にはすこしは論理学を学ぶ必要があるのではないかと思っている。すくなくとも中にコンピュータがはいっているようなモノ・サービスのデザインに関わる人は。

モノと人との関わりをデザインする

デザインとはモノをデザインすることではない。
モノと人との関わりをデザインすることだ。
以前から書いている通り、モノとそれを扱う人間を含めて統合的なシステムとしてデザインを考えることが大事だと思う。そうでなければ、モノはうまく機能しない。
その意味でデザインとは本質的なところでシステム設計であったはずだ。論理学を学んでおいた方がいいと思うのも、そこに理由がある。

デザインとは本来、モノと人との関わりをデザインすることで、よりよい世界を実現することだったはずだ。「記憶術/フランセス・A・イエイツ」や「世界劇場/フランセス・A・イエイツ」で紹介したフランセス・A・イエイツの本を読むと、それがよくわかる。デザインとは本来そうした宗教的なことも含む活動だったのだと思う。

分割し、組み合わせ、強調し、順序づけ、削除し、充填し、肉付けし、歪曲さえする自由。こうしたあらゆる自由の目的は何であり、それを縛るものはないのだろうか。世界制作が成功するための基準は何なのか。
ネルソン・グッドマン『世界制作の方法』


  


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