蓄積

職場が変わって早2ヶ月。当時はまだ暑かったのに、すっかり寒くなりました。

職場が変わると困ること。それは今まで蓄積した資料が使えなったりすることです。前に一度作った記憶のあることも、もう一度最初から作りなおさないといけない。一般的な事柄(例えば、人間中心設計のプロセスとか、ペルソナの説明とか)は、以前の資料を活かして書きなおすこともできますが、そういうもの以外は基本的に作りなおし。これが結構手間。そういうことがあるので蓄積された資料のアーカイブの価値がわかる。まあ、作りなおす機会があることで、資料自体が前よりよくなったりもするわけですが。

これは単純に資料の蓄積だけの話じゃないんですよね。まわりの人とたがいに理解しあう度合いっていうのも、いうなれば蓄積の結果。新しい環境なら、その蓄積をゼロから作り直していく必要があります。これも結構コストだったりするわけで、それはいっしょに働く同僚に関してだけでなく、お客さんとの関係に関してもそうなんですよね。蓄積は大事です。

ただ、この蓄積ってのは自然にできるものでもないんですよね。「ねぇ、自分でちゃんと使ってみた?」でも書いたように、どうも現代人ってのはとにかく新しいものばかりを追いかけて、何でもスクラップアンドビルドにしたがる傾向があります。ほっとけば蓄積されたブランド価値をかなぐり捨てて、思いつきのアイデアのようなものでそれまで蓄積された価値を台無しにしがちです。

価値を生み出す蓄積って、実は自然に生まれるものではなくて、持続性を計画に組み込む形で持続するしくみを持たなければ、生まれてこないものなのでしょう(cf.「持続性のデザイン」)。

スパイキーな世界

一方で、計画されていないがゆえに、価値の蓄積に大きな偏りが生まれる例もあります。

リチャード・フロリダはクリエイティブ都市論―創造性は居心地のよい場所を求めるで、場に集積された価値の集積が、地域間にパレートの法則的な経済面・生産性・クリエイティビティの面で巨大な格差を生み出し、フラット化する世界とはまさに正反対ともいえるような"スパイキーな世界"が生まれていることといっています。

その地域格差のなかで、

最上位に来る地域は、下位の地域よりも生産性が高く、ものごとが処理されるスピードも速く、生活コストも否応なくかかる。トップの地域にとどまる能力のある人々は、高度に専門化された業界で高い生産性を上げながら働くことがいっそう要求される(ロンドンの投資ファンドやロサンゼルスの映画製作がその典型だ)。その半面、たとえば売れないアーティストや一般人などは、最上位地域では経済的な居場所がなくなってくる。集積化による地域の選別は、必然的に人の選別でもあるのだ。

といいます。地域に集積された価値が優秀な/優秀ではない人材をその地域に集め/排除し、富める地域はますます富む、という現象を"スパイキーな世界"と呼んでいます。

才能、イノベーション、クリエイティビティのような現代の主要な生産要素は均一には分布していない。むしろ特定の地域に偏り、集中しているのだ。

だそうです。

「搾取」ではなく「循環」

ただ、この無計画な集積/非集積による格差の大きな価値向上には限界があります。基本的に、この構造はトップの地域が下位の地域から(もしくはトップ地域内の格差における上位層の下位層から)の搾取によって成り立っているゼロサムゲームをエンジンとしているわけですから、そのゲームはいつしか終わりを迎えるしかありません。

フロリダも、

稼げる都市ばかりが繁栄を極め、それ以外の地域が経ち遅れる状態が続くとしたら、社会の多様性はどのように維持すればよいのだろう。

と疑問を投げかけています。

搾取を基本的な価値創造の原理としていては、搾取の対象となるものが尽きた瞬間に価値創造はできなくなります。そこには持続可能性がありません。持続可能性を考えれば、「搾取」ではなく、「循環」を価値創造の原理としていかない限り、原材料の枯渇はいつか訪れる運命です。

未来のための江戸学

そういったことを考えていくうえで、田中優子さんの『未来のための江戸学』はヒントを与えてくれるかもしれません。

田中さんは、未来のための江戸学として、こんなことを書いています。

江戸時代には、私たちがすでに捨ててしまった「始末」という考え方があった。この考え方は、始まりと終わりをきちんとして循環が滞らないようにすることであって、単なる節約の意味ではない。江戸時代の現実認識は、あらゆるものには始まりもあるが、当然終わりもある、ということであって、際限のない膨張や連続や増加は考えてもみなかった。時間感覚も同じである。私たちの時間のイメージは未来(もしくは終末)に向かって一直線に進んでいくが、江戸時代の時間感覚は四季のように循環サイクルだったのである。人の一生でさえ、60歳を迎えればもとに戻った。私たちはこの循環感覚をもう一度、身につけなければならないだろう。

いまの有益性だけを考えるのではなく、その有益さを生み出すものの始まりと終わりを考える。「始末」を考えるのは、それらを循環できるようにし、資源(それは物質的なものだけでなく、人の才能なども含めて)が枯渇しないようにする。搾取ではなく、取ったら返すのです。

さらに、こんな一文も。

江戸時代の人々は我々に比べると、自分の賃金仕事にばかり熱心なのではなく、「仕事」とは、自分ためでもあり他者のためでもあり、社会全体が潤うことで自分に戻ってくる、と考えていた。

自分の富の蓄積ばかりを考えて他から搾取するからいつしか資源は枯渇する。そうでなく富を自分のためだけに蓄積するのではなく、社会全体の蓄積として生み出すことを考え行動し、結果、自分もその潤いを得る。そういう蓄積のしくみこそを具体的にデザインする必要があるんでしょうね。

その際には蓄積の「場」ということをちゃんと理解したうえで、しくみをデザインしていくことが大事なんだろうと考えています。

 

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