昨日のある場所での話のなかででてきた言葉です。教育とか学習に関する話。彼女はこう続けました。
「でも、仕事に戻って、学んだ方法を役立てようとしても、画像をみて青みがかってることに気づかなければ、せっかく学んだその方法を役立てることはできない。誰かに青みがかってると指摘されなければ、自分では学んだ方法を使うことはできない」と。
まさにそのとおりです。問題解決の方法は、そもそも問題を発見する力がないと役に立ちません。彼女は「弁別」という言葉を使いましたが、違いを見分ける目、問題を通常の状態から切り離すことができる目がなければ、どんなに問題解決の方法を学んでも、それを使う場面は訪れません。
方法だけではどうにもならない
ペルソナやシナリオを用いた人間中心設計の手法でも、ユーザーインターフェイスやWebサイトのデザインにおいては必須と思える情報アーキテクチャのデザインにおいても、状況はまったくおなじです。方法は知っていても、そもそも人間の感情や行動の違いや、情報アーキテクチャがきちんと設計されているUIとそうでないUIの違いが見分けられないと、方法は役に立ちません。
問題の解決の方法は教えられる。問題発見に関しても、観察方法、インタビュー方法、そして、調査結果を分析する方法としてワークモデル分析やKJ法といった方法は教えられます。でも、おなじものを観察するのでも、おなじデータを分析するのでも、みえていないものは、どうにもできません。じゃあ、みえていないものをみえるようにする方法があるとそればっかりはないと言ってしまっていいと思っています。すくなくとも、学校や教育の場で教えられるような方法はないんじゃないかと感じてます。
とにかく自分の好きなもの、気になるものにのめりこむ
では、そういう見る目を養うような方法がまったくないかというとそうでもないと思っています。これはまた別の機会に、他の方と話したことですが、自分で違いを見分ける目、違いを感じる感覚を養うためには、やはりその人の自身の選択で痛い目をしながらも、自分で経験するということをとにかく数をこなすことをすすめます。
買い物をする、旅行に行く、気に入ったものを使い倒す、気になることをとことんやる。その際、他人の評判に耳を傾けてもいいんですが、その評判を鵜呑みにせずに実際に自分で体験してみて、自分がどう感じるかをちゃんと考えるようにしなくてはいけません。
これ、努力とかどうこう以前に、好きなことをとことんやるということです。貯金なんてしてる場合じゃない。身銭を削って好きなものを浪費し、その浪費のために必要な時間をこれまた浪費する。しかも、心底、自分で楽しみながら。その浪費への集中力が高く、浪費のスピードは早ければ早いほどいいと思います。「あとでやる」「あとで読む」「あとで買う」なんてのは論外でしょう。やるかやらないか取捨選択してるひまがあったらやってしまう。そういう夢中になる感じがないと、見る目というのは育ってこないと思っています。
ちゃんと浪費しまくって碌でもない人生を歩んだ時間がないと、まともな物事を見る目って育たない。これは断言できますね。
みえていないものはデザインしようがない
でも、それ自体ができない人が多いんですよね。身体で反応する前に、頭で考えてしまう。しかも、見る目がなくて物事の表面しかみえないので、裏側の構造だとか、情報や感情のダイナミックな動きとかはまったくみえない。なので、構造はぜんぜん別なのに表面だけ似ているものをおなじと思ってしまったり、本当は構造的にほぼおなじなのに表面が違うとその類似に気づかない。つまりパターンが見えないということ。りんごが木から落ちるのと太陽と地球の関係の類似に気づくなことなんて到底ありえないんですね。
日本における各種ソフトウェアのユーザーインターフェイスやWebのデザイン、それからインタラクションのあるデジタル機器のデザインが問題だらけなのは、まさにそうしたところに起因するものが大きいのかなと感じています。とにかく日本のそれらのデザインには、ほとんど情報アーキテクチャという観点がない。一部のWebにみられますが、それは誰かがつくったものに手を加えてるだけで、1から新しいものをデザインしなくちゃいけなくなったら、情報アーキテクチャを組み立てられる人が日本に何人いるかはほんと疑問。
とにかく表面だけしか見えてなくて、その裏側の情報の動きや、人とUIのインタラクションの流れ、あるいは、そのインタラクションを受けた人の感情の変化などの関係がまったくみえないんだろうな、と。もちろん、みえないものはいくらデザインの方法を知っていても、適切なデザインなんてしようがありません。だから情報システムであるはずのものをつくっているはずのに、粘土をこねたりスケッチするような方法でしか、デザインという作業ができないのかな。うーむ。
このへん、いったい、どうしていったらいいのかな?というのが考えどころ。
まぁ、結論としては、そうは言ってもごくわずかながら見えている人はいるので、その人たちにまかせておけばよいかな、と。格差社会ということで、それでよいのかな、と思ったりもするのです。
(と、投げやりなことを書きつつ、自分でわからないことはしつこくこだわるタイプなので、今後もこっそりどうにかする方法を考え続けるんでしょうけどw)
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この記事へのコメント
junichi
>それからインタラクションのあるデジタル機器のデザインが問題だらけなのは、
>まさにそうしたところに起因するものが大きいのかなと感じています。
日本人のコミュニケーションのスタイルに本当にぴったりフィットするUI(機能
およびUI)を実現することはけっこう難しいのではないのかと、そのようなこと
を最近考えています。
漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベットと複数の文字を利用し、同じ言葉で
も表現の違いでコンテキストが異なったりする。
「阿吽の呼吸」とか「空気を読む」とか言葉によらないコミュニケーションが日
常のいたるところである。
さらに、コミュニケーションをとるとき、日本人は「内容」ではなく、他者との
「関係性」に非常にウェイトを置いている。(2chやニコニコ動画やmixiでのコ
ミュニケーションも、会話の内容に意味などほとんど無く、「会話していること」
(他者と自分との関係性)それ自体が重要となっている気がします)
アメリカ発祥のSNSが日本ではあちらほど有用に使われていないことも、
独自の付加機能や絵文字が発展してきた日本の携帯電話がガラパゴス状態になって
いることも、
・日本人のコミュニケーションのスタイルが複雑で繊細
・他者との関係性が、お互いの相互作用(またはその他の要因)で常に変動する
という難しいものであるところが起因するところの一つなのかなあと考えたりします。
逆に言えば、このような日本人の特徴にフィットして、相乗効果を生み出すような、
潜在能力を引き出すような機能とUIを持ったコミュニケーションツールがあれば、
もしかしたらものすごいものを生み出す日本人がたくさん出てくるのかもと、
わくわくする自分もいます。
(日本語って本当に難しいな~ていつも思っているんだけど、自分だけなのかな。。。?)
tanahashi
ほんとにそうですね。
そうなるといいですね。
ワンピース(服じゃなくてルフィーのほう)みたいなUIとか。
でも、それには、いまの西洋文化の流れのなかでできたこの情報技術を結構根本のところから見詰め直す必要があるでしょうね。
アルファベットによるコード化から数字によるコード化へ、文化全体を通じて移行した西洋に対して、その結果だけを受け取った日本。
そこで言葉のコードと数字のコードの齟齬がでている。それは文化の面でもおなじかな、と。
しかも、いまやるなら数字によるコード化のさらに先にいかないといけない。西洋側はすでにその実験をはじめている。もちろん、それは文字のコードに戻るわけではありません。
このあたりを大きく捉えていかないと、ルフィーみたいなUIだとか、情報メディア(本、UI、標識、身体的なインストラクションも含めて)というのはできてこないでしょうね。
ento
tanahashi
ぜんぜん違いますw
自分がなぜそうしないといけないか。
他人が何を求めているか。
なぜ、それはそういう形をしているか。
そういうものが見えちゃう感じです。
反射神経的に。
1聞いて100を知る感じでしょうか。
junichi
>それは文化の面でもおなじかな、と。
なるほど。まさにこの齟齬を漠然と感じていたのですが、tanahashiさんの
表現で、自分の中の考えをすっきりまとめることができました。
ちなみに、数字によるコード化の際、一つのキーとなるのが、
「時間軸」のコード化
ではないか、と私は考えていました。
同期(電話など)・非同期(メールなど)だけでなく、数字によるコード化
特有の時間軸(コミュニケーションの履歴の巻き戻し、早送りが可能など)
で日本人にフィットするようにコード化できたらおもしろいかなあと。
そして、それを誰とどのように「共有」するかも。
>しかも、いまやるなら数字によるコード化のさらに先にいかないといけない。
>西洋側はすでにその実験をはじめている。
もしよろしければ、この実験の具体例を教えて頂けたらうれしく思います。
とてもおもしろそうな話です。